爬虫類好きに蛇は嫌かと問ふのは野暮と云ふものだが、大方は蛇は勘弁してくれと云ふだらう。可笑しなもので、好き嫌いにも好みがある。それでも、誰に聞いても嫌だと云ふだらうと云ふものが、必ずある。で、それすらも歳を重ねれば、好きにはならぬまでも我慢どころだと思ふやうになるものである。ものの好き嫌いとは、なんとも面白い。
生まれつき我慢強いと云はれた私が、生まれつき毛嫌ひしたものがある。無類の甘党でミソっ歯の絶え間がなかった子供時代、死んでも嫌だとごねたところがある。歯医者だ。ご存知、あの歯を掘るドリルを憎むまでに嫌った。亡き母がよく思ひ出話をする都度、歯医者と聞いたときの私の形相を語り草にしたのを思ひだす。
考えたくもないのだが、私の歯医者嫌ひは父親譲りだったとの説がある。父の歯医者嫌ひ、確かに異常だったが、それが私に遺伝したかどうか、さて。遺伝と云へば流石はわが父、あの人はすこぶる付きの甘党だった。老いては飯に汁粉を掛けて食ふ珍食で知られ、若い頃は職場の甘党と汁粉の十二ヶ月(十二杯の競ひ喰い)で連勝したとの伝説が残ってゐる。
ミソっ歯を云ふなら、私は十代ならずに抜けたが父は不惑を越えてこれに悩まされた。だから歯医者の大得意で、絶え間なくこれに世話になってゐた。いや、世話になってゐたとは言葉のあやで、迷惑を掛けてゐたのだ。治療椅子に座る、白衣の歯医者が近づくだけで座りながら腰を抜かす、抜かすだけでなくまず顔色がそして唇の色が変わる、意識が薄れて椅子に雪崩れ込む・・・、つまり治療不能状態に陥るのだ。歯医者にしてみれば迷惑この上ない患者だ。。
父が歯医者へ行くときは家の誰かが付き添うのが常だった。劣らず歯医者嫌ひの私も、後年ときに動員されて父の醜態に立ち会った。歯医者嫌ひの私も、子供ながら自分は流石にかうまではなるまい、と思ったものだ。
父が通ふ歯医者は桶川の街中、中山道沿いにあるA歯科で、歯科医は壮年のベテランで父の習癖を熟知してゐた。椅子にもたれた父は暫く放置され、頃合ひを見て肩を叩かれて気づく。治療椅子に嵌った父には逃げ場がない。ないから観念する。観念してやうやく口を開ける。歯医者は容赦なく、見るからに手際良く治療を進め、ごく短時間に治療を済ませる。一連の作業に何処かパターンが見られるのは、如何に歯医者が父の扱ひに手慣れてゐるかの証しなのだ。そんな様子を見ながら、万一にも遺伝子を受け継いでゐたら、晩年かうなるのでは、と危惧が走ったのを覚えてゐる。
いま新コロの嵐がやや下火になってゐる。二日ほど前、下の前歯辺りに叩くとピリッと感じる痛みがあって、定期の診察日が当たっていたのを幸い、それを診てもらおうと歯医者に行った。私の話しから状況を判断したか、歯医者は即座に痛因を特定しドリルを持ち出した。掘ってその歯の根元に進行している虫歯を削り取ると云ふ。久し振りのガーである。父ほどの反応はせぬが、咄嗟に掘ると云はれてゾッとした。掘られる覚悟がやや不足していたのだ。えいままよと成り行き任せる。
その日のガーの始末は述べるのも鬱陶しい。麻酔下で仕草にこそ見せぬが、ドリルがオンになる度に体が突っ張った。掘り込むドリルの先端を刻々と感じて、麻酔の届かぬ深みに達して激痛が走る瞬間を予感して慄(おのの)いた。ついでに神経を抜くとのご宣託、如何様にもせよと覚悟する。
治療を受けながら、不図、父の姿が脳裏に浮かんだ。その一瞬に惨めな様子を見せまいとの自戒の念が走った。そして治療が終わり、二時間ほどは飲食に注意、麻酔が回ってゐる唇を噛みなさんなよと念を押されて治療室を後にした。
あれから一週間、不意のガーで別な神経を冒されたのだろうか、二日ほどは痛み止めもさほど効かぬままガーの後がしきりに痛んだ。時悪しく歯茎の腫れが合併して、あと三日ほどガーの余韻は残った。回転数が昔とは数段上がったとは云へ、ドリル掘りはやはり懲り懲りだ。せずに済むように日頃の虫歯対策は念入りに、と自戒しきり。
しみじみ思ふ。回転数が低かった昔のドリルに慄いて、ガーは嫌だと暴れた幼時の自分が奇態に懐かしい。年の功か、その瞬間過ぎ去った月日が掻き消えて、幼い我と我が身に囁く、「なぁおい、ガーはいまも嫌だが、いまは五入で九十歳になってなぁ、あれ、何とか我慢できる様になったよ。」
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