救ひの地、アイダホ:その1(48)

時は経ていま2020年、ほぼ半世紀前の留学の日々を振り返り、アイダホの街と山並みがしきりに懐かしい。今年に入って支那の武漢に発したパンデミック、いわゆるコロナウイルスが世界に蔓延、いま年末近く11月の末になって、混迷の大統領選挙の最中世相が悪化、それを報じるメディアの誰かが曰く、「いまや穏やかな地は日に日に減って、救ひはアイダホのみ」、と!

私の留学先アイダホは、たしかに温和なところだった。都会のはずの州都のボイシですら、時計が止まったかの様な別世界の穏やかさが印象的だった。何としてもこの目で見たいと海を渡ったかつての敵国がそのアイダホだったことは何たる皮肉、私のアメリカへの先入観が狂い、敵地に踏み込んだ感覚が萎へ、拍子抜けしたほどだったことを覚えてゐる。コロナと大統領選の乱戦で血走ってゐるアメリカで、唯一の救ひの地と言はれる温和な空気がいまなお残ってゐるらしいアイダホの地に、半世紀余を経た今、遡って懐かしさが込み上げるのを何としやう。

ロッキーの山裾に広がる茶色と広葉樹の緑が織りなす野生そのものの自然に埋もれて、私の大学生活は、角張った先入観が霧消、要らぬ神経を煩わされることなく日を重ねた。スターン先生との逸話もその一頁、本稿で語る寮生活の苦楽も忘れ難い話だ。

学業絡みの苦楽は追って語るつもりだが、今振り返ってほろ苦い思い出はアメリカの日常生活のあれこれと食ひ物、まずこの二つに馴染むことの哀歓が最たるものだ。日々のことだから寝起きと食ふことは肝心要、対応を誤れば健康も害さないとも限らぬ。だから、この環境への同化がすべての鍵だった。

自慢じゃないがわが家は、飢ゑこそせぬがお世辞にもゆとりは毛ほどもなかった。両親に子供六人が手狭な家に暮らし、ご馳走らしきものには縁遠い食事に慣れて、悲しいかな、お祭り騒ぎの折の刺身が限度で握り寿司などは言葉の世界、ましてビフテキなど気配もなかった。ことほど左様に、私は鰯など野暮な魚と野菜で育ち、肉っぽい食事に縁がなかった。

寝起きと云へば畳に布団の他は知らず、布団とて煎餅で畳み甲斐のあるふっくらした奴には縁がなかった。布団を押し入れに出し入れする習慣は寝起きの一部と弁へて、一向に不思議はなかった。つまりは、つましい生活に慣れっこになってゐたのだ。

そんな私が、ベッドと肉中心の食い物の世界に放り込まれたときの戸惑ひを想像されたい。煎餅布団から毛布とシーツのベッドへの乗り換えは只ならぬ「位相の変化」で、髷を払ひざんばら髪に洋服を着込んだ明治の先人たちの不安がしきりに思ひやられた。大袈裟なと云はれるな、私はこの変化に慣れるまでゆうに半年はかかったのである。

大学構内に住まひ学費を稼ぐのが条件の私は、寝起きの場所をDriscoll Hallと云ふ名の男子寮に住ふことになった。最寄に女子寮Morrison Hallがある。1階の西南の角の部屋を充てがはれ荷物も持ち込んだ。荷物とは云へ、シアトルのバス発着所で追ひかけた黄色のスーツケースとギターだけだ。

寮生活は初めてのこと、それも外つ国となれば落ち着かぬこと甚だしい。建て付けのベッド、これも建て付けの机と衣服タンスが寒々しい限りだ。ドアを開ければ右にベッド、左に衣服ダンスで間の通路は幅1メートルはない。5メートルも入れば窓、窓下に水循環型の暖房機、窓際左が白壁を前に机面が突き出してゐる。それだけの何とも素っ気ない部屋だ。

トランクを開いて中身を出す。数点の衣服類、何枚かの肌着類と洗面具など生活用具、残りは本、辞書、大学ノート数冊に卓上時計などの小物だ。本類は机面の壁際にたて、ブックエンドで止めて、私は椅子に寄り掛かり考えた。時系列的にはやや遡り、これはトムたちとの仕事仲間を知る以前の頃のこと、チェフィーご夫妻以外にまだ誰も知らぬ、天涯孤独を実感した瞬間だった。

「ここが戦場になる」、そう思ったのである。一念発起して以来の月日が思ひ出されて息が詰まった。あれは、私のアメリカ生活が実質的にはじまった日、今更に戻れぬ懐かしい日、すべてが始まった日だった。(つづく)

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