有機か無機か=英語と料理

ものの理解にはどうやら理詰めと感覚頼りの切り口があるやうで、巷では理系文系、無機有機などと人の脳味噌を類別する。英語の学習でもこれが云へる。片や英語を学問の対象と捕らえ語彙、一方で文法とシンタックスでひたひたと攻め、他方は英語を文化と観て語感やユティリティーなど有機性に取り憑かれて悦に入るのと、大まかに分かれるのがそれだ。どちらが本道か、どちらが英語の粋に近づけるかと云ふのが本稿のテーマ、兎と亀ではないが、どちらが先に駆けつくかはなかなか興味ある話しである。

駆けつく先のゴールはと云へば、当然英語と云ふ外国語を何の不自由もなく操る境地であり、多くの英語学習者は其処を狙って日々研鑽を積んでゐるのだが、理詰めと感覚、さてどちらが効率的か否本質的かと云ふと大いに議論が分かれるところだ。

先ず理詰めの側、謂わば理系で無機的な学習法だが、これは世間で云ふ学校英語。文法を系統的に習い語彙を増やし、構文をパターン式に叩き込むやり方だ。大方の日本人がこの伝で英語に取り組んで来たからその功罪は誰でも知ってゐる。文部省(今は文科省)が定める指導要領が組み上げるカリキュラムに沿って、粛々と教へ習ふ。地理や歴史のようにデータ化した「英語」と呼ぶ教科が教え込まれる。

これがいままで踏襲されてきた英語学習法だ。読み書き主体の英語はしっかり教えられる。私もこの流れで英語に触れ、取り組み、モノにしてきた。

さて、話の次元をがらっと変える。料理の話だ。ある男が旨いものが喰いたいと料理学校に入る。料理の基礎概念から食材選び、調味料と出汁の蘊蓄、包丁捌き、味付けなどの基本技を覚える。レシピに従ってひと品作って見る。味はどうか。

もうひとりの食い道楽は同じ動機で一念発起するが、学校でなく料理屋通いを始める。店から店へ、あれこれ注文してはひと箸ほどに瞑目して考え込む。捌かれた食材の切れ味、刻み具合を舌ざわりで確かめては唸る。そんなことで四五年が過ぎる。この食道楽、ある日思ひ立ってひと品拵えてみた。味はどうか。

英語に馴れ合って半世紀余、私にはどうやら英語も料理も、煎じ詰めれば同じように思える。この二人のどちらが板前に育ったか、身に滲みて分かるのだ。英語も料理も使えてなんぼ、食べてなんぼだ。レシピに忠実に料理しても、人を唸らせる逸品はできない。文法に漏れがない文章が人を泣かすとは限らない。ここぞの不協和音が旋律を活かす道理だ。

文法は家なら造作づくりだけでいい。謂うなら構文と時制だけでいい。語彙は歩きながら視野に入る言葉を状況ごと順に覚えて行けばいい。ここで云ふ英語は所詮は生身の言葉、「言語」ではない。生活のツールであり、学問のテーマではない。書くにも喋るにも、思いの丈を活きいきと伝えられればいい。言葉は生もの、その場限りの弾ける新鮮さが命、五月の初鰹をその場で捌くが如くに書き語る、ああだこうだと字句を詮索する無粋はせぬものだ。思えば、有機か無機かなどは愚問の極み、料理にせよ英語にせよ、どちらも生ものであって見れば、これは有機に限るとしたものだ。

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