猪突はわたしの取り柄(5)

さて、二年間の講師生活でなんとか渡航費用を捻出したわたしは、いよいよアメリカ行きの実現に、一歩踏み出した。猪突がわたしの取り柄、ここは一番、アメリカ大使館にぶつかろう、と思い定めたのだった。

当時アメリカ大使館は元満鉄ビルを使っていた。溜池のジェトロの横あたり、星条旗が翻る日本人には別天地だった。大使館の手前にたしか平屋の事務所風の建物があり、ここにアメリカ文化センターなるものがあった。わたしはここへ通いつめた。センターには大学のデータが完備されており単科大学から総合大学まで、すべての大学について情報が整っていた。わたしは考えた。この中から選ぶのには、なにかキーワードを決めて絞り込むに如くはない、と。

アメリカの大学には地域的な特徴があるのかないのか、授業料はどうか、入学試験は、等々、わたしはやみくもに担当者に尋ねまくった。尋ねまくったといえば聞こえがいいが、拙い英語でのこと、なんとも”はか”がいかない。それでも藁をもなんとやら、担当のアメリカ人は目を血走らせて尋ねまくる変な日本人学生の何かに感じるところがあったのだろう。訪ねるたびに応対が柔らかくなった。記憶が正しければ、あの担当官は三十前後の女性だった。ある日、こう言ってわたしを励ましてくれたのだった。

「あのね、こうしなさい。まず五、六十ほど大学を選んで手紙を書きなさい。最初だから細かいことはいいから、カタログを送ってくれるように頼むのです。それぐらいならあなたの英語で十分でしょう。それからのことです」。

彼女はそういってにっと微笑んだ。人様の親切を人もあろうにかつての「敵国人」から貰おうとは、なんたる皮肉。わたしにとってはほろ苦い思いだった。わたしのアメリカ観がぐらっと搖らいだ瞬間だった、といまにして思う。さて、大学を抜き出すについては何か手がかりはないか。わたしは考え込んだ。なにしろまるで手探りの状態だ。どうせ苦労するのだ。日本人がいない場所がいい。いなければ英語で生活する環境を巧まずに作れるじゃないか。われながら名案だった。

そうだ、田舎がいい。素朴な田舎の環境がいい。地方中心に選んだ大学は三十ほど。単科大学あり四年制あり、中西部から西部にかけ選び抜き、カタログ送れの手紙を書き送った。なんだかもう入学した気分だった。わたしも若かったのだ。それからの日々は何も手につかぬ思いで過ごした。返事はなかなかこなかった。

待ちあぐねた身には時計の針音も気になるものだ。

外国便を待つそこはかとない心理は、わたしには覚えがあったのだ。中学時代にスイス人と絵はがきの交換をしたことがあったからだ。ベレー帽をかぶった初老の男性だった。こ一年も文通をしただろうか、拙いわたしの英語にへきえきしたか、一生懸命さを買ってあえて勧めてくれたか、その人はあるときわたしにエスペラントを始めるよう勧めてくれた。必要な資料は送ってあげるからと励ましてくれた。事実しばらく後に、日本エスペラント協会からエスペラント語の辞書と参考書のセットが送られてきたのだった。あちこちに英語の単語も取り込まれているエスペラント語に、わたしはしばし没頭した。しばし、だ。ふと頭をよぎるアメリカ行きの思いが入道雲のように湧き戻ってはそんな雑念を押しのけた。エスペラントもなにもかも、ほかのことはもはや雑念でしかなかったのだ。

そして半年もしただろうか、アメリカからの返事が届き始めた。なにせ何十通も書いた手紙だ。ぽつぽつながら返事は次々に届いた。色刷りの大学の入学案内だ。まず読むのが大変だった。人には助けてもらえない。これはわたしの単独行動だったからだ。これを七つに絞るのに二ヶ月もかかった。大きすぎるところはだめだ。あまり乗り気でない雰囲気の大学もまずい。などなどと勝手な手がかりでふるいを振った。大都会は何となく怖いな、という感じもあった。勢い中西部から西部海岸に絞られてきた。どうせなら、ぎらぎらしたアメリカより素朴さが残るアメリカを見たい、そんなところでじっくりとこの国の本質を実感したい。そんな思いがあったからだ。

そして二、三校に絞られたとき、わたしははじめて渡航後の経済を考えるようになった。思えばのんきな話ではある。アメリカへ行くのにも、そこで学ぶにも、まず金がいるじゃないかという現実だ。アメリカ行きの思いだけに咽(む)せて、わたしは経済を考えてこなかった。あきれた話だ。だが、若気とはそういうものだ。思いばかりが先走って、実体が虚ろな話が心理を席捲する。気づいてわたしは考えた。旅費はできたが、問題は学費と向こうでの生活費だ。これをこっちで作っていくなどできない相談だ。作っている時間がそもそもない。これは現地調達しかない。そう考えた。
現地調達…….。

つまり、「働きながら勉強する環境が作れるか」、これがキーワードだ。こうして最後に絞り込んだ大学にそんな考えだが受け入れてくれるかと、交渉を始めた。当たって砕けろ、だ。わたしはそれからというもの、めぼしい大学の学長に「直談判」を重ねた。とんでもない、という返事から、脈があるかな、の対応まで、懲りずに書き続けたのだった。

押し問答は果てしなく続いた。無知とは恐ろしい。いま思えば、とてもできる相談ではなかったのだ。猪突はわたしの取り柄、それでもあれは無謀だった。アメリカ行きに凝り固まっていた執念のなせる技だった。

そして、奇跡が起きたのだ。

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