梟翁が去って二回目の命日を迎えた。
一年前の記事を読み返すとその頃の自分が思い出される。梟翁との暮らしでぬくぬくしていた私がいきなり一人暮らしに放り込まれた衝撃は大きく、一年経っても独りの現実と闘うような心持ちがあった。相続問題で落ち着かなかったし俳句の会に入ったばかりだったので、孤独は強かった。悲しみと孤独に耐えながら過ごしていたので、ホームページに記事を書き続けたのは梟翁との共同作業を止めたくないばかりではなく、自分の精神安定のためだったのだと、今になってわかる。
さらに一年が過ぎた。相続は片がつき、以前と同じような生活が確保できて落ち着いた。同じ家、同じ庭、同じ食器、同じベッド。梟翁が使っていた物がいつも視界に入っているので、何となくいっしょにいるような気持ちも続いている。余生の友として始めた俳句やボランティア活動で人との交流も広がり、それほど寂しさはなくなった。俳句の会になんとかついていけるばかりか小さな賞をいただけたのも梟翁のおかげ、と、日々感謝しながら過ごしている。
とはいうものの、話しかけてもなにも返ってこないのは寂しい。そんな寂しさに少しずつ馴れるにつれて、心の奥の虚ろが暗く深くなっていくような気がする。この先も埋まることのない虚ろを抱えていくしかないのだ。
それでも時の経過とともに気持ちは変わっていく。亡くなってしばらくの間、一緒にいるような気持ちになれるのでよく聴いていた梟翁の歌声(カラオケの録音)。いつの間にか聴くと悲しくなってしまい、聴かなくなっていた。それが最近間違えて流したら、”悲しい”ではなく”懐かしい”と感じてハッとしたことがあった。時は悲しみを癒し懐かしさに変えていくのだろうか。
二十数年しか一緒に暮らさなかったけれど、梟翁は何でも一緒にやろうとしたので思い出はたくさんある。良い思い出がほとんどなので、思い出を反芻しながらお迎えが来るまで過ごせるのがありがたいと思う。
そして時は、気持ちばかりではなく状況も変えていく。三回忌の法要を無事に済ませた二日後、娘夫婦が来年早々にこちらに引っ越してきたいと言ってきたのだ。梟翁も望んでいたことなので是非もない。予定より何年も早まったので落ち着くまでが大変だろうし、気ままな独り暮らしが終わってしまうのは少し気が重いけれど、どうせ一緒に暮らすなら早い方がよいと前向きに考えている。
秋分の日に改めて墓参。前日までの残暑が去って涼しくなったので、お墓でぼた餅を食べながらゆっくり報告をしてきた。
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