バブルの頃に「株の神様」と言われ、投資の本がよく売れていた禿頭のおじさんをご存じだろうか?邱永漢(きゅうえいかん)という日本に帰化した台湾人、若い頃「香港」という小説で直木賞作家となり、後年は経済評論家として名を馳せていた。私はテレビや、書店で平積みにされていた本の表紙で見知っていただけで、ずっと「ていえいかん」だと思っていた。そんな「株の神様」が愚にもつかない嘘をついていたのだ。
邱永漢は、日本における台湾独立運動の立役者・王育徳と同郷同輩、台北高校から東大進学も同じということで、近しい間柄だったそうだ。梟翁が王育徳の本を英訳したときに、ご遺族(王育徳は1985年に他界)からそのことを聞いて、学究肌で真面目な王育徳さんと派手な投資家・邱永漢との意外なつながりに驚いた記憶がある。
その邱永漢のデビュー作『密入国者の手記』という小説は、王育徳をモデルにしたものだったそうだ。この小説が評価されて邱永漢の日本文壇デビューが叶ったという。しかしそれは、王育徳に無断で書かれたものであり、王育徳はいずれ自分の自伝小説を書くつもりでいたとのこと。王育徳も作家として身を立てたいという夢があり、曽野綾子もいた同人に顔を出していくつも原稿を書いていたけれど、在留資格がない身分だったので発表することができなかった。そんな時に邱永漢に自分が書こうと思っていたテーマを取られてしまい、結局筆を折ったという。そんな話も驚いて聞いたものだった。
でも、それだけではなかった。
邱永漢は『密入国者の手記』がフィクションなのにも関わらず、後年になって実話かのごとく自伝小説に記していたのだ。
先日たまたま図書館で、邱永漢の『わが青春の台湾 わが青春の香港』という文庫本が目にとまった。その中に『密入国者の手記』も収録されていたので借りて読んでみた。まず『わが青春の台湾 わが青春の香港』を読む。これは邱永漢の自伝小説だ。その中に、王育徳が在留許可を得るための裁判の一審と二審で「強制退去」の判決が下され、邱永漢が訪ねたときに困り果てていたという場面があった。
(以下引用)
「〜裁判官だって事情がわかれば、なんとかしてくれるんじゃないかい。こうなったら、僕が君に変わって陳情書を書いてあげるよ。」
そう言って私はその晩から夜を徹して裁判官あての手紙の形式で、『密入国者の手記』と題した五十枚ばかりの文章を書いた。
〜中略〜
王君は刷り上がった雑誌を裁判の折りに参考資料として提出した。私の文章が功を奏したせいかどうかは私にもわからないが、最終審で王君とその家族の在留権が許可された。
(引用終わり)
『密入国者の手記』が王育徳本人に無断で書かれたとご遺族から聞いていたので、目を疑う思いだった。次いで『密入国者の手記』を読んだけれど、裁判官への手紙という体裁をとっている小説であり、陳情書として書かれたとは到底思えないものだった。
一応ご遺族に確認するとそのことも知っていらして、本当に困惑しているとのこと。そもそも裁判もなかったそうだ。『わが青春の台湾 わが青春の香港』は1994年の作品で、王育徳が亡くなってから10年ほど後になる。邱永漢が「死人に口なし」とばかりにフィクションを実話に仕立てたのだろうか?それとも自伝小説自体が所詮フイクションだと開き直っていたのだろうか?もしかすると邱永漢は、『密入国者の手記』を書いた直後からそのような演出話を周りに吹聴していたのかもしれない。それが嘘だったと認めたくないために、さらに嘘を重ねたのかも?
いずれにしても、もし邱永漢の記述通りの話であれば、邱永漢は王育徳家族から感謝されているに違いないけれど、それが一切ないのが嘘であることの何よりの証左だと思う。王育徳は、台湾人同士の仲違いが表沙汰にならないようにと、声をあげてこなかったと聞いた。それをいいことに、本人の死後にフィクションを実話のごとく発表した邱永漢は、「ザンネンな株の神様」と言わざるを得ないだろう。私にとって、「株の神様」の株は大暴落したのだった。
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