梟翁は私が知る中で、一番気位の高い男だった。それが彼の様子に品性というか風格というか、決して堕することはないという確固としたものを感じさせていた。とはいっても聖人君子ではなく、むしろわがままで思いこみが激しい猪突猛進を絵に描いたような性分だったので、それとのバランスに苦労しつつ孤高を保つ風だった。
自分に厳しいだけではなく周りにも厳しかったので親類縁者には敬して遠ざけられていたし、友人もほんの一握りに過ぎなかった。そんな数少ない友人の中で私の印象に強く残っているのは、台湾人のために生涯を捧げたサムライ、宗像隆幸さんだ。
宗像さんについては「Mの死」を是非参照していただきたいと思う。2020年7月にこの世を去った宗像さんを、梟翁が詩情たっぷりに追悼した記事だ。時は1960年前後、宗像さんは大学で知り合った台湾人の友人から、台湾人が国民党政府から虐められていることを知り、台湾人の味方になって活動を始めていた。梟翁は当時勤めていた出版社で宗像さんと知り合い、機関誌「台湾青年」の英訳を手伝った。
宗像さんと梟翁は一歳違いの同世代、血気盛んな若者同士だった。けれども宗像さんは独身、梟翁には妻がいた。当時の台湾独立運動は、台湾人ならブラックリストに載って国民党の特務に拉致されることもあった命がけの運動だった。そのような運動に宗像さんはパスポート偽造まで行って協力していた。一方梟翁は、妻との生活を考えてのめり込むことができず、ノルウェー大使館に勤めてからは運動から離れていった。
宗像さんとの交際が復活したのは、2000年以降となる。台湾が民主化を成し遂げて、独立連盟のメンバーが台湾政界の中心で活躍していた頃だ。宗像さんは、台湾独立に人生を捧げてきた日本人として尊敬を集めていた。梟翁は旧交を温めようと、宗像さんの本をまとめて購入したり自分のものと同じ杖をプレゼントした。それに応えて、「若い頃の親友だったんだ。」と何度か宗像夫妻との会食に招かれたことがあった。宗像さんの口癖は「俺は素浪人みたいなものだけど、友達は大学教授ばかりなんだよ。」だった。野武士のように飄々としたおおらかさが印象的で、憎めないすてきな人だった。
これは私の推測、いや憶測レベルの話しだけれど、私はこう思っている。
梟翁は宗像さんに、ある憧憬を感じていただろう、と。義侠心と友情から明日をも知れぬ立場に身を置いて、台湾の独立に人生を捧げた宗像さん。もし自分も彼のように政治活動にのめり込んだなら、どんな仕事ができただろう、と。
梟翁は、「俺はつくづく自分が一級市民だと思うな。」とつぶやいたことが何度かあった。きちんと納税し、両親を支え、社会に一切迷惑をかけずに暮らしてきたのだから、確かに一級市民に違いない。私は「本当にそうね。」と相槌をうつばかりだったけれど、その言葉の裏には、生活の諸々を顧みず自分の熱い思いに身を捧げることができなかった”所詮市民”という自嘲が隠されていたのかもしれない、と今になって思う。
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