テーブルの向かい側にコーヒーがある。梟翁がいつも飲んでいたダークローストブレンドだ。でも、テーブルの先に梟翁の姿はない。
梟翁が倒れる直前まで、3年余に渡ってほぼ毎週のように通っていた大型ショッピングモールのカフェ。その大型ショッピングモールは端から端まで350mほどもあり、段差がなく天候に左右されず年寄りのウォーキングに格好の環境ということで、毎週木曜か金曜の午後に一時間ほど歩き、その後お決まりのカフェに座り込むというのが私たち夫婦のルーティンだった。
カフェの席に着くと、梟翁はさっとMacBookを開いて即座に文章を打ち始める。ウォーキング中に構想を練っていたに違いない。私は読みかけの本を開いて読書三昧、普通は1時間、梟翁の興が乗れば一時間半になることもあった。
カフェの店長は私たち夫婦を覚えていて、2年前のある時、こう声をかけてきた。
「実はメニューが変更されて、いつもご注文いただいていたダークローストブレンドがなくなってしまいました。申し訳ありません。ですが、私がいる間はダークローストブレンドをお出しできますので、遠慮なくご注文下さい。」と。
※このいきさつについての詳しい記事は ちょっといい話(知の木々舎2021年1月上号)を参照してください。
もちろん喜んでそうさせていただき、いつも”裏メニュー”を頼むこととなった。その店長O君は梟翁の母の旧姓と同じ苗字というのも何かのご縁と、折りに触れて短い会話を交わす間柄となっていた。
最後にそのカフェに入ったのは8月の半ばだった。早3ヶ月が過ぎ、きっとO君は心配しているだろう。私の気持ちもようやく落ち着いてきたので、報告とお礼をかねて足を運んだ。梟翁が鬼籍に入ったことを伝えると、O君は顔を曇らせて「しばらくお見えにならなかったので心配しておりましたが、そうでしたか。お悔やみいたします。」と哀悼の意を表してくれた。私はダークローストブレンドのお礼に、梟翁の英訳本”Taiwan: a History of Agonies” を贈らせていただいた。
席を探そうと店内を見回すと、さすがはO君、「あ、あの席がいいですね。今片づけますので、どうぞ。」と、私たち夫婦が一番気に入っていた席をさっと片づけ通してくれた。ありがたい心遣いにほっこりする。
「カフェインに弱くなってしまってダークローストブレンドは飲めないのよ。」と言いながら、紅茶とサンドイッチのセットを注文すると、しばらくしてO君が紅茶をもってきた。ふと目をやるとコーヒーが一緒に盆に載っている。O君は、持ってきたコーヒーをテーブルに置きながら、「ダークローストブレンドですので、どうぞ。」……..と……..。
なんという粋な計らい!コーヒーカップの向こうに梟翁が見えるような気がして、思わず涙があふれた。いやだ、まるで映画のワンシーンみたい、それなら私はヒロインかしら?などと夢想しながらサンドイッチをほおばる。せっかくだからとダークローストブレンドを二口、三口味わう。思いきり苦い。でも梟翁が毎週楽しんだコーヒーを味わう嬉しさよ。一時間ほど座り、心温まるひとときを惜しみながら席を立った。O君に「本当にありがとう、また来ます。」と伝えて。
梟翁の余慶に感謝しながら車を走らせる。途中ぱあっと視界が開けた道に出ると、遠くに富士山がきれいに輝いて見えた。私はこの日を忘れないだろう。
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