梟翁が病院のベッドに横たわり、最期を覚悟しながら何を考えていたのか、連れ添った私にもわからない。きっと私など思い及ばないことを考えていただろうと思っている。とはいえ、彼が自分の人生にかなり満足して逝ったことは確かだろう。人一倍懸命に、前向きに、乱暴と言っていいほど自分の意志を通して生き切ったのだから充実した人生だったはずだ。でも、彼が長い人生のなかで望んで成し得なかったことは、もちろんいくつもあった。
その第一に挙げられるのが、自分の子供を持てなかったことだと思っている。彼は2度結婚したけれど、自分の血を分けた子供を授かることはなかった。
最初の結婚はアメリカ留学中に知り合った日系人女性とで、30年近く連れ添ったが子供は出来なかった。彼女が亡くなってから10年ほど経って、私と出会った。インターネットが普及する前の、パソコン通信の世界が舞台だった。音楽が趣味という共通項で彼からメッセージが届いたのがきっかけだ。当時パソコン通信にアクセスする女性は少なく、男性でも60代は希少だった。
彼が25才も年下の私に近づいたのには、30代後半の女性となら子を為して育てられるかもしれない、という思惑がかなりあったはずだと思っている。「おふくろに、『泰治に子供がいたらなあ。』とよく言われるんだ。」と話していた。長男の自分に子供ができれば母親はどんなに喜ぶだろう、それに自分の分身である子供を持てたらどんなに素晴らしいことか。
まさしく最後の賭けだったのだろう。
私もそんな彼との子を望み、不妊治療にも挑戦した。けれど、二度の流産を経て断念したのだった。私を労り、はっきり落胆の様子を見せることはなかった梟翁だが、どんなにがっかりしたことか。その後、「俺に子供がいたら、うんと賢い子に育ててやったんだがなあ。」と問わず語りにぼやいたことは一度や二度でなく、亡くなる直前まで続いたのだった。
子供が甲高い声を挙げるのを聞くと、「あー、この声は燗に障っていやだ!」とイラついていた梟翁。自分の子供がいたら、コロッと変わっていたに違いない。あのとき流産せずに子を産んでいたら、その子は今ごろ成人に達しているはずだ。梟翁があの世に旅立つとき、自分の分身がいるといないとでは心持ちが全く違っただろう。
その代わりと言ってはなんだけど、昔の写真から若くして老成の風格があった梟翁と比べて、未熟な大人そのものだった私は子供のような存在だったに違いない。彼の掌の上で安心しながら、私はたくさんの知識を与えてもらい、大事な智慧を教わったのだった。
向こう側で梟翁が「違うぞ!」と叫んでいるかもしれないなあ。そうだとしたら、私が死んであの世で再会したときに謝りたい。
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