冬が立ち梟翁の四十九日も過ぎた。梟翁のことだから、迷わず冥土にたどり着いて、親や友人達との再会を果たしていることだろう。
残された私こと梟惠はといえば、一人以上二人未満の生活パターンが定着してきている。家では遺影に語りかけ、運転中はカラオケの歌声を聞いて時を過ごしている。デジタル録音の歌声でも、聴いていると不思議なくらい安心する。たくさん録音を残してくれて、本当にありがたいと思う。
カラオケといえば、梟翁は子供の頃から目立って歌が上手かったらしい。中学生の時に音楽の先生から請われて、文化祭で独唱をしたくらいのものだった。その頃から英語にこだわっていた彼は、英語で「ケンタッキーの我が家」などフォスターを数曲披露した。田舎の生徒や父兄たちは、英語の歌というだけで神妙に聴いてくれ、拍手喝采だったそうな。
梟翁の通っていた中学校は、北足立郡加納村(昭和30年に桶川町の一部になった)の加納中学校という。その北足立郡加納村で、若き梟翁は女子に人気があったということを、ふとしたきっかけで聞いたことがあった。
それは、親戚の家に二人でお焼香に伺った時のことだった。その家には梟翁と年の近い従姉妹のSさんがいて、彼女はお茶を出しながら年下妻の私をしげしげ眺めると、梟翁についてこんな話を始めた。
S「奥さん、この人はずいぶんもてたんですよ。頭がいいし、なんだか皇太子殿下みたいに気品があるって。」
皇太子殿下とは今の上皇陛下のことだ。上皇陛下と梟翁は、学年が一つしか違わない同世代なのだ。先の大戦たけなわの頃、東京から母の実家のある加納村に疎開してきた彼は、農村育ちの級友にくらべて仕草や話し方に都会風の垢抜けた雰囲気があっただろうし、抜群の学力でずっと級長だったなど、かなり目立つ存在だったことは確かだ。
つい身を乗り出した私にSさんは続けた。
S「ほら、浦高を卒業して英語の先生になったでしょう?私もその時に教えて貰ったんだけど、島村先生、人気があったのよ。私の友達で『絶対私は島村先生と結婚するんだ』って言ってた娘(こ)がいてね、アメリカに出発するとき横浜港まで見送りに行って、『留学から帰ったら結婚する、そうでなければ死ぬ。』なんて言って待ってたのよ。」
なんだか穏やかでない話になってきた。ちらと梟翁に視線をやると、彼は無表情のまま聞いている。
私「そ、それで、その方はどうされたんですか?」
S「アメリカからお相手を連れて帰ってきちゃったからね。でもその娘はなかなか諦めきれなくて、適齢期をずいぶん過ぎてやっと結婚したの。」
よかった、自殺沙汰などにならなくて。それにしても、半世紀前の彼にそんな熱狂的な女性ファンがいたとは驚いた。見直すというわけでもないけれど、改めて彼の顔を見やると無表情を崩さずノーコメント。この手の話題に乗って藪蛇にならないようにしていたのかもしれない?
想像をたくましくすると、たとえば生徒に「先生と結婚したいです。」と言われて、「ああ、○○くんがすてきな大人の女性になったらね。」なんて答えたこともあったのかもしれない。昭和10年代生まれの女性は、それは一途だったのだ。
見かけによらず梟翁は罪作りな男だったという一幕、冥土でくしゃみをしているや否や。悲しい記事が続いていたので柔らかい題材にしてみました。(了)
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