主人が亡くなって初めての月命日に、主人の友人から電話がかかってきた。
私が、「今日は月命日なんですよ。」というと、
「そうですか。あっという間だったでしょうねえ。」とおっしゃるので、
「いいえ、なんだかとてもゆっくり時間がすぎた、長い1ヶ月でしたよ。」と素直に答えたところ、
「え、そうなんですか?」と、とても驚かれた。
端からみれば、私があっという間に一月過ぎたと感じているに違いない、と思うのだろう。私も当事者でなければそう思ったはずだ。けれど、当事者になってみたらそれは大きな間違いだった。
カレンダーを確認して、(あれ?まだ10日しか経ってないの?)とか、
(なんだか1週間がとても長く感じる。)と思い、月命日になって、
(ようやっと1ヶ月が経ったの?なんて長かったんだろう。)と思っていた。

主人がいた頃は、「世は全てこともなし」といった平穏な日々が続いていたので、1ヶ月はとても短かかった。けれども、主人の死を境に世界は一変した。未経験のさまざまなことを一人で決めて一人でこなしてきた日々、1ヶ月にたくさんのことがあったので、時間がゆっくり進んだように感じたのかもしれない。
それだけではない。内面にも嵐が吹き荒れていた。主人の遺体や祭壇の遺影に語りかけて涙する、声に出さなくても心の中でしょっちゅう帰らぬ主人に語りかける、ありがとうと感謝する、どうしてあの時ああしなかったのかと自分を責め許しを乞う、最期のときあの人は何を思ったのかと想像する。運転していて目的地を通り過ぎたことが2回もあった。(危なかったかも…。)そんな風に心の中で絶えず思いが渦巻いていたから、時間がゆっくり進んだように感じたのかもしれない。
でも、それだけでは説明がつかないほどの、かつて感じたことのないゆっくり感なのだ。
実は本当のところはこうだろうと思っている。主人が死んで二人の時が止まってしまったから、時間がゆっくりになったのだ、と。止まってしまった二人の時に意識が大きく割かれていて、そこから離れることに抵抗感があるから、時間がゆっくり進んでいるのだ、と。そうでなければ、この異様なほどのゆっくり感を説明することはできない。
私にとってゆっくりゆっくり1ヶ月が経った。家の中にいれば、あの人の物に溢れている。本人がいないのが不思議なくらいだ。それでも何かにつけて、肝心なご本人は本当にいないのだと実感する毎に、喪失という事実を認めざるを得ない。手のひらから少しずつ砂がこぼれ落ちるように、あの人の現実感が失われていく悲しさを感じている。
けれどもその一方で、砂がこぼれきってしまわないように、心の中のあの人の存在をしっかり作り直そうとしているのだ。雑然と散らかっている部屋の中から大事なものを拾い集め、引き出しに整理し直すような感じだ。そんな作業が意識的にも無意識的にも続いている。
—Sponsered Link—
この記事へのコメントはありません。