ほうれん草を食って元気を出すカテューン・キャラクターと云へばポパイ、水夫で恋人がオリーヴとは知ってゐても、奴さんの名前の由来までは案外と判らぬらしい。英語が得手なら、 Popeye だと書いて見せれば即座に納得、さうか、たしかに目玉が飛び出して居るなと気づくはずだ。私には Popeye the Sailorman の呼称と某缶詰の味とでこのキャラクターが忘れられない存在なのだ。
閑話休題。
わが菜園がやうやく賑やかになった。昨年植えた玉ねぎがひと冬越えて逞しく成長し、スナップエンドウが冬中の世話が活きて花を付けるまでなり、いっ時どうなるか心配させたブロッコリーが甲斐甲斐しく実を肥やして、すでに二、三食お相伴に与ってゐる。折から、懸案の馬鈴薯の植え付けが女房どのの心意気で今日完了、これでこの春の畑作業が一段落となった。
見れば、ひと頃の寒気で縮み上がっていっ時心配させた冬好きのはずのほうれん草が、ここ数日の暖気で俄かに精気を取り戻し、折から施した油粕の肥効で一斉に伸びて居る。天を衝かん勢いの濃緑色の葉を眺めながら思ひ及んだのがそのポパイ、元気の素との発想はこの辺りが出処かとにんまりする。
わが留学時代、貧乏の最中の自炊に生野菜を刻みこむ才覚がなく、缶詰王国のアメリカで店頭に並ぶ缶詰野菜の中から安易に選んだのがポパイ印のホウレンソウ缶、私はこれを随所で使った。微かな塩味に奇態な酸味のホウレンソウの水煮、一食分のサイズを便利して常用した。
インゲンの水煮もあったがこれを選んだのは、笑ふなかれ、実はこのポパイとの俗説が裏打ちになってゐた。元気の素とは俄に信じ難いが、俗説にせよ力強い話、さうは書いてないインゲンよりはポパイ印のホウレンソウでと云ふ埒(らち)も無い習慣がかうして根付いた。奇態なその味も妙に身に付いて、知らぬ間にポパイ印のホウレンソウ缶が貧乏学生の野菜源として定着したのである。
その過程でこんな事を考へた。
想像上のポパイにこと掛けて、アメリカ人たちはほうれん草を好むのでは?淡白なレタスなどよりは味が数段と濃厚なほうれん草はどこか力強い。力強さならアメリカ人の大いに自覚かつ自慢するところだ。人気者のポパイに食はせて、ほれ奴さんはこれで元気なんだと仕組んだのがポパイ印の缶詰、と。異論はあらうがひと角の話ではある。
それにしてもあのうす塩っぱい酸味は何だ。店頭に並ぶホウレンソウ缶があの味だから、あれを好んで食らふポパイの味覚も巷のアメリカ人のそれに大きく違ふまい。ならば、あのうす塩っぱい酸味はアメリカ人の味覚であり、いっ時奇態と感じた私の日本の味覚がアメリカ人の味覚に上書きされて一向にさう思へなくなった、と。
後年野暮用でアメリカを訪れた時、貧乏学生時代の野菜補給源との触れ込みで、女房どのにこのポパイ印のホウレンソウ缶を食わせた時の反応が何とも痛快だった。顔を顰(しか)めるや缶詰を凝視、これが食ひ物かとの風情で絶句した。いや恐縮の至り、その時の私の思ひをご想像願いたい。
味覚が文化とは、その折に再認識した。仮に日本であの缶詰を食へと迫られれば、箸をつけるや尻込みしたらうに、現地では左程の抵抗感もなく常用できた背景にも、日本の味覚で育ったわが味蕾がああも諾々とあの味を受け入れた裏にも、それ、文化があるではないか、と。
わが菜園に育つほうれん草を眺めながら、それは是非とも和風な味付けで食ひたいものだと思ふ傍(かたは)ら、あの奇態な味を日本風に再現できまゐか、と料理好きな女房どのに注文付けて見やうか、と思ひ付く。なぜにと問われれば、懐かしい留学時代を米寿のいま味わって見たいからだ、と言はふと思ふ。
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