思ひ起こせば、渡米に先立って船賃のドルを申請する段取りで、大蔵省の詰問があった。担当官が私に浴びせた非情な質問が忘れられない。
「国庫のドルは貴重で安易に割り当てられない。渡米目的が『文学研究』など薄弱で、難しく思ふが・・・」
当面の留学目的としてさう申告していたのだが、短期で何が研究できるかと難詰されて、私は歯噛みしながら堅い決心を訴えた。結果的に船賃の280ドル余は出たのだから、あの質問は非情なばかりか、こ意地の悪い嫌がらせだった。50年代半ばに高校卒の若者が何の引きもなく留学するなどは、良く言へば大したもの、悪く言へばやっ噛みの対象であったらう。
文学研究などと云ふ焦点外れの目標は、最初の一年ほどは何気なく目の前にちらついてゐたが、二年目に入るや、ある衝撃的な経験がそれを一挙に拭い去り、必要不可欠な分の時間以外の時間をすべて振り向け、あらぬ方向へ舵を切った。
あらぬ方向とは、何と音楽だった。
衝撃的な経験とは、パイプオルガンとの邂逅だった。大学構内のAuditorium(講堂)は、夏季のアルバイトで構内の清掃やら修繕やらに携わっており、その南壁に何やらパイプ群が林立してゐるのは知ってゐたが、作業の忙しさにそれが何とも知らずにゐた。
秋の学期始め、不図(ふと)講堂の外側を通り掛かった時、内部から低く唸る音が聞こへた。勝手知ったる建物、脇の外ドアを開けて入り、内ドアを開けて唖然とした。堂を満たす轟音、見れば例の林立したパイプ辺りから壮大なオルガンの音が吹き出してゐる。中空中程に向かう向きに誰やらが鍵盤を操ってゐる。何と両脚まで働かして演奏してゐる。この時点では、私はそれがパイプオルガンであることを知らなかった。名前は聞き知ってはゐたが、実物を見たり、ましてや演奏される場にゐたことがなかったのだ。
私は後部の長椅子の端に座り込み、堂内に満ちる楽音の海に浸った。弾かれてゐる音楽がバッハであり、コラールの一つだったことも後に知ったことだ。思えば、バッハの音楽にしてからが、知ってゐたのはメニュエットやらG線上のアリアなどの整理のついた曲で、この種の緻密に織上がった重層音を直に浴びたのは(將に浴びた感触だった)、生まれて初めてだったのである。
思えば、私は音楽が好きだった。好きこそ何とやら、学芸会では選ばれて唱歌を唄った。分散和音を左手、旋律を右手で、足踏みオルガンの伴奏もしてゐた。だが、勉強する科目ではなく、好きだからこその唱歌でありオルガンだった。だから、留学するにしても、音楽を目標にするなどは毛頭なかった。が、確かに音楽は好きだった。そんな深層心理に、あの日あの時、突如スイッチが入ったのだ。
長かったやうに思へるが、多分30分弱だったらう、演奏が終わって奏者が立ち上がるのを遥か後部で見た私がやおら立ち上がりドアへ向かう時、ことりと足音をたてたのだろう、それに気づいた演奏者の紳士が振り返って私を見た。
”Hello, there. Been there all this time?”
と言われたかどうか定かでない。「やぁ、ずっとそこにいたのかね?」と云ふ意味のひと言だった。私はさうだと答え、邪魔をして済まない意味のことを云った。頭を下げにその人に近づき、丁寧に辞儀をした。それが、恩師 Dr. Bratt、ブロット先生との初対面だった。
Dr. C. Griffith Brattは語り口の温和な不惑ほどの歳格好、すでに全米屈指のオルガン奏者の一人だった。それと知らぬ私は、人懐っこいアメリカ人の吸引力に惹かれて、着米以来のあれこれ、学内でのアルバイトから学業の経験談を問はず語りに物語った。聞いたオルガン曲の印象を問われて、壮大な音の海に溺れかかったこと、音楽は好きなこと、バッハがあのような緻密な音の織物のやうだとは知らなかったことを、語彙の引き出しを空にして喋った。
途中から黙って聴く側に回っておられたブロット先生は、言葉を選んでかう言われた。
”Couldn`t you possibly let us share your time studying music?”
どうだらう、音楽を少し勉強してみる気はないか、と云ふのだ。文学研究なる仮想目的の処理に悩んでいた私は、この時自分の足元が運命的にぐらっと揺らぐのを感じた。
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