わが庵の丑寅、車で小一時間ほどに行田と云ふ街がある。人によっては足袋の名産地、考古好きには埼玉(さきたま)古墳群などで馴染みの田舎街、文系の連中には古代蓮の名所として季節ごとの楽しみが溢れる場所だ。
古代蓮。三千年もの歴史がある行田の蓮はさう呼ばれて、四季こもごもに地域の人々を惹きつける。週も開けて人の出も薄からうと、月曜日の今日、コロナ凌ぎに初夏の名にし負ふ古代蓮を鑑賞に出掛けた。何時からか滅法花好きになった愚妻が嬉々としてハンドルを握る。猫の額ほどのわが庵の菜園、その隅に囲った細やかな花壇に、あれこれと植え込み種を蒔いて花を楽しんでゐる彼女は、このところめっきり花付いて、テレビで花栽培の番組を見ては土いじりに余念がなく、御陰でわが庵には常に花が絶えることがない。
古代蓮の鑑賞には蓮が目覚める午前九時辺りが理想なのだが、朝起きが苦手の私の所為でそれができないのが気の毒だ。止むを得ずの遅出、池には午後一時頃に着く。古代蓮を観光の切り札に、行田の街は結構栄へてゐる。蓮たちが群れる庭の周辺に、田圃アートとて稲やらの植物群をあしらって地上に盛大な絵を描き、空中から眺めて楽しむ芸を売り物に、何と、観覧タワーまで建ててをる。遠くは富士を望み、近くは埼玉の古墳群を一望できるタワーで、天辺からは田圃アートが眼下に見下ろせる仕掛け、今年は歌舞伎仕立ての絵柄で、なかなか秀逸な作品だ。商魂逞しい行田に脱帽の思ひだ。
さて、話題の古代蓮は小広い一面の池を歩道橋頼りに歩いて鑑賞する仕組みで、水面から見かけ腰の高さまで立ち上がった蓮たちが、あるいは蕾状に、あるいは半咲きで、または枯れ切った形で群生している。見ればあちこちにジョウロの口のような一見異形の形が目につく。聞けば咲いた後の種子壺とかで、これが裂けて種を落とすと云ふ。眺めれば、ざっと蓮の種々相の観がある。古代から蓮たちがそれぞれの相を繰り返して幾星霜を経て来たと思へば、長くて百年程度の人間の何と短命で儚いことか。
構内にもうひとつ建物がある。古代蓮会館と云ふ。何がしかの手数料を払って入ってみる。順路の最初、一角の展示が何故か照明を落としての妖しげな設(しつら)えだ。どうやら子供たちの勉強のための仕掛けと見たが、左の通り、古代蓮にまで遡る地元行田の里の自然を再認識させる知恵があちこちに埋め込まれてゐる。パネルを開ければ油蝉の鳴き声、オナガのけたたましい声が聞こえる。地元愛を育てる知恵が溢れた見事な企画だ。子供たちに、蓮の花を介して古代に遡る人間の足取りを教えやうと云ふ魂胆で、この街の子供たちは他所の仲間を一頭地抜く人間力を身に付けるかも、と大いに頼もしく思った。
さらに歩を進めて、蓮の習性を語るコーナーへ。ここで私は、傘寿を数年経た老骨にして赤面すらする事実を知る。そのインパクトが本稿を綴りながら依然として筆先を揺るがすやうな障りがあるほどのことだ。それは日頃、年嵩をよいことに小癪なことをほざく身の拙さが身に染みた瞬間でもあった。
それは、こういう話である。
この花の開花から枯死までの物語を何気なく追っていた時、ある事実を知って無知を恥じ、脚が竦んだのだ。知らなかった。ある日、蓮は朝早くまず蕾をしどけなく開いて咲いて見せ、夕べには閉じる、と。次の日にはまたも朝早く、これが同じ花かと見まがう見事な花を咲かせて夕べに閉じる。三日目になると、老ひた人がやっと歩むやうな、哀れな花をやうやく咲かせ夕べに閉じる。その時、萎れた花は脆くも弁を落として果てると云ふ。
そして四日目には、花だった部位がやがてジョウロの首のような異形のものに姿を変えて、見るからに老衰の様を晒す、と。つまりは蓮の花の命は僅かに四日、たった四日の命を淡々と送るとは何たる宿世、ここに至って私は仏教の世界に散りばめられた蓮の種々相に想ひを馳せて、慄然として言葉を失った。
釈迦の台座に蓮華あり、言葉の世界に一蓮托生あり、蓮華は泥より出でて泥に染まらずとて、清らかさと聖性の象徴として重んじられる裏に、命の儚さを悼む人の思ひが込められてゐまいか。
無邪気に訪れた行田の里で、私は魂を揺るがすほどの衝撃を受けた。蓮ならぬ己が四年後には卒寿を迎へる。四が忌む数だからとて、この穏やかならぬ符合は看過できない。逆算時計を据えて時の流れを意識してをる身に、どうやら新たなチャレンジが惹起したか。古代蓮を思ふにつけ、ハスのいのちならぬ、アスのいのちこそがしきりに思はれてならぬ。
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