昔日の思ひ(49)

この抄文を書いてゐるのは2021年の夏、トランプの再選が潰へたアメリカでは、BLMやアンティファの嵐が燃え盛り、いま建国以来の社会変動の兆しさへ見えてゐる。終戦後10年、苦労は覚悟、それ相応の気構えで留学したアメリカだが、ひとつ、人種差別の実態は前もって想像すらもできず、アンクル・トムの子孫たちの日々については一切の予備知識がなかった。だから、昔日のアメリカを知る目には、現今の実情との乖離は将に隔世の感が深い。

既述した通り、私は留学先の大学選びに日本人未踏を条件にしてゐた。日本人の気配のない場所で、人の目を気にせず英語漬けの時間を満喫したかった。ボイシの街は開拓時代のアメリカが生き残ってゐるようなところで、街中に日本人は疎か東洋人の影も見かけなかった。(近在の街々、ナンパやカルドウエルなどに日本人の農家が点在してお世話になるのだが、それはのちの話だ。)

そんなボイシでは黒人も見掛けなかった。探せばゐたのだろうが、私の生活圏では学食の厨房にゐた四十がらみの黒人女性が一人だけだったのである。日々の食事時に見掛ける彼女の様子に差別に耐える風情はなかったから、人種差別の実態などは見えるべくもなかった。

イメージ画像

当時の私の潜在意識には、アメリカ人の差別意識が黒人へのそれではなく、戦い勝ったとはいえ憎っくき日本人へのそれに転嫁されてはゐはせぬか、と云ふ懸念があった。金の苦労に加えて、下世話に云ふなら、虐められはすまいかとの懸念が絶えなかったのだ。それを超えて留学を決めた裏には、日本が負けた相手をどうしても見たいと云ふ素朴極まりない衝動があったのだ。

さて、それは措くとして、ボイシでその衝動がどう受け取られたか、日々の生活で何を見てどう感じたか、自分の気負ひがどれほど実態にそぐわなかったか、その辺りの実感をぜひご披露してをかねばならない。私がチェイフィー先生の庇護下にあったことは確かだから、日々の意識こそなかったが、大学周辺での私の生活には目が光ってゐたことはあっただらう。だが、彼奴は日本から来たんだから気を遣ってくれよと周知されてゐたとは思へないから、これから語る私の実感が的外れとまでは言へなからう。

黒人は例の学食の厨房の女性のみ、その彼女が周りに邪険にされていない様子だから、そうか、世に言うアメリカの人種差別は虚ろなものと思ひ込んだのも無理はない。ある時、黒人差別について糺したとき、チェイフィー先生は「生理的なこと」とさり気なく呟やかれた。生理的な感覚、学食の厨房で私が初めて目にした黒人女性から私が直感した意識が将にそれだった。あれこれと馴染む気にはなるまいな、と云ふ感覚だ。それが生理的な反応だとすれば理屈以前の話、人権やら尊厳やらとは異質な動機だ。

日本から来た学生に差別意識を持つとしたら、動機としてあるかも知れない生理的な要素に加えて、戦争の相手国民と云ふバイアスが掛かって変質するやも知れぬ。クソ度胸を決め、どんと身構えては見たが、何せ鬼畜とさえ呼んだ人々に混じった体感は尋常ではない。

渡米後の半年余、あたかも暑中休暇の大学構内で金作りに励みながら、触れ合ふ人々や出来事のあれこれから、どんと身構える姿勢が、相撲なら”いなされた”感じだった。つまり、こちらが思うほどには戦争の余韻はなかったのである。ほぼ構内での日々だから、チェイフィー先生の配慮も無しとはしないが、それにしても周囲の目に戦争相手国の若者よ、と指弾する気配は皆無だった。

BSUの学生(1960年代)

直情径行の性(さが)ながら、時の経過と共に硬直した身構えが緩むのを覚える。流石に戦争の話題は持ちかけられたことがなく、こちらから言及する気にもならなかった。勢ひ潜在してゐた人種差別がらみの斟酌は、私の日々の言動から影を潜めたのである。

こうして、国家としてのアメリカの種々相にこそさまざまに疑念を残しながら、アメリカ人への姿勢が時とともに柔軟になり、彼らの”鬼畜性”は冗句とも思えて、何時かな大学生活を通じて蟠(わだかま)りの影が消え去った。

昨年暮れのこと、トランプの再選を願うボイシ時代の友人が、いっとき頻りにメールを寄せてきた。彼曰く、トランプの再選なしには「この国はえらいことになる」とBLMやアンティファに象徴される差別絡みの社会変動に危を訴えてゐた。嘗てのアメリカを知る私にも、現行の社会変動は信じ難いものだ。昔日の思ひ、しきりである。

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