なにか難問を解いた時、書き渋ってゐたとき不図これぞの語句が浮かんだ時、そんな瞬間にさっき出逢った。ひと様にご披露するにはあまりに私ごとに過ぎるし、言葉の端々の乱れもお恥ずかしい限りだか、どうかお読み飛ばし下され。
実はなんと、皐月が暮れなんとする先程午後十時過ぎ、わが左手が見事にほぼ完全に握れたのである。この場で何度かご披露したばね指の指たちが生き返ったのだ。人差し指から小指まで、四本の指が掌に食ひ込み、それを親指できつく押さえ込んでも痛みを感じぬまで、左手の指たちが全て原状に復した。さっそく絞って見た手拭いはすっきり脱水、勢ひ込んで握ったギターが音らしい音を出して応へてくれた。
ばね指と云ふ悪夢を見る最中、ひと時私は内心ギターを捨てた。もう弾けまいと思った。「音」の無くなる時間がどんなものか、様々に想像して人目を避けて哭(な)いた。左手の指たちの働きを改めて知り、かれらの有無がどんなものかを察し尽くした。
それだけに、見事に握り切れた瞬間の欣喜雀躍振りは、恥ずかし乍ら例えやうもなかった。握力が戻った喜びを愚妻の手を握って分ち与えた。ここまでになるには、病院通いから些細な面倒まで、大いに世話になったからである。
八十六歳の老翁の時ならぬ幼児の如き騒ぎを、どうかお赦し願ひたい。何か馳走を振る舞われた時さながら、芽生えを諦めてゐた種ものの思はぬ発芽を発見した時さながら、左手の指たちの鮮やかな復活は例へ難い吉祥なのだから。
これで違ひなくソルに戻りハノンに向き合ふことができる。快哉。
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