わが庵の西の方、十キロ辺りにささやかな動物園がある。子供目当てとて「こども自然動物公園」と名付けれられ、近在の住み人たちの散策のメッカだ。私も愚妻に引かれてしばしば此処を訪れる。
客年の末、コロナ禍がいまひと波押し寄せんかと巷が騒ぐなか、ままよと、ひと午後此処へ出向いた。日頃仲間とも思ふ山羊たちと触れ合って、先ずは無聊を慰めんとの思ひからだ。折から、園も頗るつきの厳重警戒。駐車場から大回りしてゲートへ、体温なども調べられ調査票やらも書かされての入園は、何とも芝居掛かって面白い。
ルーティーンの山羊詣でから、この日は広場の南側の小屋の一つに、小動物の群れを見て立ち止まった。五、六十匹もゐようか、白黒斑らのモルモットと思しき奴が餌の葉っぱの山に取り付いてゐる。木札を見れば天竺鼠とある。天竺?
天竺は唐の先インドのこと、大雑把に西の外つ国で、天竺鼠とは余所の鼠ほどの意味だらう。説明をしげしげ読めば、俗にモルモットとも称する、とある。
興を唆(そそ)られて奴らをじっと見つめる。なるほど、モルモットと云ふならこれはモルモット、敢へて天竺呼ばはりせぬとも、と苦笑。どちらでもよからう、とさらに説明を読み進めれば、何と、鬼天竺鼠もあると云ふではないか。鬼?
鬼と云へば怖いものの代名詞とされるが、さらに大きなものの象徴でもある。とんぼの鬼やんまの類だ。それにしても、鬼天竺鼠とは何たる奇名。説明の締めに「鬼天竺鼠はカピバラとも言ひます」とあって、われながらぐっと言葉に詰まる。鬼とカピバラの対比に一瞬馴染めない。
ともに「天竺」呼ばはりされ、大きな奴は輪を掛けて「鬼」と冠(かんむり)されるとは、鼠とて戸惑ふだらうに。名付け親は誰かなどは問ふまい、さても鮮やかなお手並みだ。茶色のモルモットなら確かにカピバラはその鬼変化とも言へやうから。
モルモット、いや、天竺鼠の群れをしみじみ眺める。葉物の餌に取り巻いてひたすら食らってゐる。見れば半端な量ではない。田舎で云ふひと笊(ざる)ほどの葉っぱだ。居合わせた給餌員に問へば、曰く、「ものの一時間ほどで・・・」もぐもぐの食ひっぷりで、見る間に平らげると云ふから驚く。鼠でも天竺ものは違ふものだ。食らひまくって鬼になったか・・・。だが、カピバラとは異な名だ。
・・・・・
丑年が明けて十三日、時ならぬ暖気に釣られて件(くだん)の動物園へ出かけた。初牛を見ようとの愚妻の誘ひである。なるほど干支のけものに会ひに行くなどは乙な想ひだ。彼処には結構な数の乳牛が屯してをり、鷹揚な牛どもは目ばかりか心の保養にもなる。よからうと出かけた。
牛もそうだが、このたびは名をクオッカと云ふ新入りの動物も是非見たい、と愚妻。以前は人が溢れて見損なったと云ふ。常のルートを捻ってまずその新入りたちを見る。どうやら笑顔が愛らしい奴との噂だが、一見、集(たか)って見るほどのけものじゃない。この日、私の思ひは実は他にあったから早々と小屋を後にする。
さう、何を隠そう天竺鼠、それも鬼と冠(かんむり)されてゐる洋名カピバラを改めて見聞しやうとの算段だ。緩やかとは云へ真冬のこと、雪こそないが流石に寒気は残る。さぞや縮こまってをろうと思いきや、三頭が何と湯浴みの最中(さなか)だ。二頭が樽に嵌まり込んで頭上に温湯を浴びてゐる。一頭は湯船に浸って己の順を待って入る風情。粋とも乙とも、何とも云えぬ有様だ。天竺鼠も鬼ともなればやることが桁が違う。湯浴みが鼠の天性なら、そもそも天竺鼠もその気(け)はあろうに、野鼠の湯浴みはとんときいたことがないから、どうやらこれは鬼の特性らしい。なにせ、鬼天竺呼ばわりは片腹痛い。
それにつけても、わが日本語は小気味よくも変幻自在だ。山野に潜んだ外つ国びとが筒鼻の天狗に、見知らぬ界から舞ひ降りたからこその天人天女、即、いずれも異国の産物だからこその「天」扱い、大和鼠とは違ふ外つ国鼠の語感を彷彿とさせる。天とはそもそも見掛けぬもの、さて天国とはよくぞ言ったものだ。
如何だらうか、鼠の身になればモルモットやカピバラ呼ばはりされるよりは、やれ天竺やれ鬼天竺と冠(かんむり)される方がさぞや快かろう、と思ふのだが・・・。
気づけば、天竺話に興が乗り過ぎたか、どうやら紙幅が尽きたやうだ。あの後に覗いた牛たちの小屋で見聞きした耳寄りな話は、次稿に譲らせていただく。
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