魚釣りで「たもに入れた魚」と云ふ。攩網のことで、超難読の攩を「たも」と崩しついでに網も省く。釣りあげた魚を手元に取り込む柄つきの網だ。鉤に掛かった魚をたもに入れるとは、「これで間違ひなく釣りあげた」の意で、獲物を仕留めた感を示す言ひ草である。
今年の箱根駅伝は稀に見る展開で、ダークホースの創価大が往路を制し、復路も目を見張る健闘で総合優勝を将にたもに入れた。ヘラ釣りなら、尺越への大物を釣り上げ、たもに入れて手元に引き付けた瞬間だった。ゴールの大手町まで5キロ余、3分の差はさしもの駒澤大とて詰められまい、ましてや抜き去るなどは誰しも予想しなかった。いや、出来もしなかったのだ。
ドラマが起こった。創価大のアンカー小野寺勇樹の走りが、脱水症状か、その頃明らかに乱れ始める。直前のペースが1km3分25秒に落ち、追う駒沢の石川拓慎との差が見る間に縮んでいく。残り2km辺りで追いついた石川が小野寺を追い越す。抜きざま小野寺を盗み見た石川の様子はしめた感が漲り、足取りは俄に生き返りそのまま、勇躍ゴールを切る。箱根の雄、駒澤の13年振りの復活だ。大魚がたもから逃げ、歴代18番目の優勝校に名をつらねて勝利の美酒に酔わんとした盃を取り落とした創価大は、暗転する花の舞台を呆然と見つめた。
勝負は確かについた。あたかも道端に落ちていた札束を拾ったかのような駒澤大の幸運も勝負のうちと云えば何をか言わん、明暗ともどもに言い難い余韻が残る。駒沢の大八木監督のインタビューには明らかな照れ隠しの辞が読み取れるし、大魚を逃した創価大の榎木監督は「指導力不足、決して選手が悪いわけではない。」と小野寺をかばった。
面白かったと云へば語弊もあらうが、側で観戦した私には、このドラマには滅法楽しめるコマが随所にあった。専門家の筈の瀬古氏の予想が掠りもせずに外れたことは余興だが、戦ひの過程で駒澤大と創価大のクラブハウスの様子が右左する様は、そんじょそこらのテレビ劇を凌ぐ傑作だった。創価大の勝ちが十分予想された残り10キロ辺りから逆転に至る数分間の裏方たちの悲喜交々の映像は、勝負を他所に十分楽しませた。
先ず、小野寺を追ふ石川の姿が見え隠れし始めた辺りの駒沢側のうずうず感が見もの。抜き去った瞬間の当たり構わぬ狂気いや狂喜の沙汰が絵になった。
対照的にジーンと来たのは創価側の一瞬の振る舞いだった。石川が10秒ほどに近づき、痛ましい小野寺の足取りに気迫が残っていない様子を見て、抜かれるのを予感した辺りの反応はやむ無し。心を打ったのは、小野寺がゴールに倒れ込んだ直後の盛大な拍手だった。たもに入れた大魚を惜しむ無念感を越えて贈った破れる様な拍手。これは掛け値なく美しい振る舞いだった。敗者の創価大は大魚を逃した代償に、今年の箱根から何やら大きなものを得たのではなからうか。
大学対抗の箱根駅伝は90余年の歴史があると云ふ。年毎に多彩な話題を残し、わが愚妻などはこれには生き字引さながらの蘊蓄をひけらかす。予感だが、今年の箱根はその劇的な趣から暫く噂だねになる。鬱陶しいコロナ禍を拭い去る格好な話題だからだ。
さて、筆者は締めに小野寺君に一言言わねば済まない。下世話だが、彼はわが庵に隣する上尾の産、同郷の好(よしみ)だ。所属の大学の如何はさておき、それと知ったとき密かに活躍を期待した。あのような展開になり、いかに慰めようとも大魚を逃した責任を重々しく感じてゐるに違いない。彼の肝の太さは知らず、まだ若い彼が背負ふ荷の重さはさぞやと思ふ。
好漢小野寺よ、この重荷を愉しんで負ひ給え。様々な事象にはそれぞれに要因がある。事象の展開に思いを乱す愚は避けよ。要因の中にこそ英知が隠れてゐる。勇んでそれを活かせ。活かして将来に処するならば、君の見掛けの失態は大きな成功の核になる。
「箱根」には夢がある。生き字引にはなれぬまでも、そこに織り込まれる人間劇には近頃の安手のテレビものに失せたドラマがある。たも事件を機に、私も愚妻の向こうを張る箱根通になるやも知れぬ。
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