コロナの間隙を縫って圏央道を西へ、月替わりを期して青梅を訪れた。庭仕事が一区切りしたところだから、時もよし、幸い雨模様も午前中だけとて勇んで出立する。
何故(なにゆえ)の青梅、さう、いっときは閉鎖もされた昭和の国民作家、吉川英治の記念館が再開、折から「新平家物語」を読み耽りめっきり英治贔屓なっている愚妻が是非にと云ふので思ひ立ったのだ。吉川英治と云へば、「神州天馬峡」や「鳴門秘帖」が幼時からの馴染みの作家だからから一も二もない、直筆の原稿など見るのも一興と、即賛同する。
吉川英治記念館は、彼が九年ほど住んだ青梅市の吉野辺り、生前草思庵と称した吉川邸を造作したもの、裏手に手広く立てた記念館に万を越える資料が展示されてゐる。近年、さしもの国民作家の人気も翳り、記念館は観客数の激減で昨年3月、惜しまれて閉鎖となった。しかし、この一代の国民作家を忘れ去るに忍びないとの思ひは後を引き、吉川英治の遺族が記念館を青梅市に寄付、今年9月に市の施設として再開された。市は、クラウドファンディングやふるさと納税も利用して資金の調達を頑張っている。文学館に類する施設の閉鎖が相次ぐ中、吉川英治記念館の存続へ舵を切った青梅市の姿勢は、地方自治体の文化振興策の鑑とも云へまいか。
筆者に云はせれば、ここに国民作家たる吉川の面目がある。いっとき某誌に六つのペンネームを駆使して六編もの話を同時に載せさせたと云ふ語りの名手だった彼は、読者を繫ぎ止める筆の力が並でなかった。愚にもつかない話に現(うつつ)を抜かす昨今の読者にも吉川の魅力が分からないはずがない、と思って居たが、左の通り、巷は彼を忘れなかった。このたびの吉川記念館の蘇生がそれを雄弁に物語ってゐる。
吉川英治が国民作家たる所以は、彼が平たく云えば畢生の語り部だと云ふことだ。「宮本武蔵」に例えれば、これは巷の講談本を語り物に洗練する彼の技が鮮やかに結実した傑作だ。新聞連載と云ふフォーマットを巧みにこなし、数々の名作を送り出した手練は、文字通り国民作家それも比類の無いそれではなからうか。
吉川英治が残した言葉に、「我以外皆吾師」というのがある。その深意は、読者を見る目はかくあるべし、と読み取れる。記念館の展示物のなかに彼の肉筆原稿があるが、埋めた漢字にルビ付きのもののいかに多いことか。年齢を超えた読者の目を常時意識する彼の姿勢が見てとれる。我以外皆吾師とは言い得て妙である。
草思庵には樹齢数百年の椎の大木がある。樹下に徳川夢声を傍に話し込む映像が展示されてゐる。眺めながら、天下の無声とある日の武蔵を語り合う英治の声が、ふと聞こえてくる錯覚を覚えた。
この日の吉野郷は紅葉にはほど遠く、夏の深緑に埋まって居た。葉が色づいた頃またどうぞとの係員の声掛けを背に、吉川英治と過ごした吉野郷を後にした。
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