スターン先生のこと:その1(45)

アメリカへの留学を決意したとき、心の準備もさることながら、勉学対象を予想して基礎知識の詰め込みにあれこれと腐心した。当然ながら不得意の理系は措き、文系のテーマを網羅して読書に励み、身勝手な方針を立てて大学ノート何冊もの「知識」を整理して渡米に備えたものである。

そのひとつ、米国文学を巡る読書の「成果」として、作家群の活躍を時系列で辿った研究控えの一冊が今も残ってゐる。実地にはほとんど頼ったこともない身勝手な研究成果だが、渡米を控えた突き詰めた若者の高ぶりが垣間見えて微笑ましい。

ほかにはアメリカの文化史、おもにO!Pioneerの西部開拓史やインディアンの哀史なども相当読み込んでゐたのだったが、ごく当然ながら数学や物理、化学などは埒外で、理系では私の知識は高校卒ではたと止まってゐた。つまり留学後の勉学にそれら理系の科目に関わり合ふとは想定外だったのだ。

ボイジでの一年目、バランスよく単位を取るべく国語(えいご)、外国語、人文系に加えて理系の何かも入れねばならぬとstudent counsellorが云ふのだ。理系と云はれて咄嗟に怯んだが、ままよと物理を選ぶ。選びながら大いに気に病む。足を洗った筈の理系にまた手を染めるのかと内心忸怩たる思ひ、それを感知したかstudent counsellorが何か不都合かと問ふから、理系は得意でない旨を仄めかせば彼曰く、概論程度だから意に介さないことだと宥める。

思へば、母校(浦高)は名にし負う進学校、そこで物理と地学は嫌々ながらやってゐる。ここは母校の名に賭けて無様な姿は見せられぬ。劃然と曰く、ならばその物理概論なる科目を取りませう。student counsellorはその辺りの私の口振りから何か思ひついたか、それで大いに結構と笑顔で会釈した。

その後のある週末、私はスターン(Dr. Stern)なる教授に呼ばれた。Dr.付きの女性教授だ。日本から来た学生と聞いて会ひたい、と云はれる。それまでも誰彼となく日本からの留学生として声を掛けられて昼飯などを共にしてゐたが、教授からは初めてだ。教授室でお会ひして挨拶を交わすや、その足で先生の運転でご自宅に招かれることになった。話の様子でチェイフィー先生のお口添えがあったやうだ。

先生のご自宅は市の西南部、木立が多めの一角にある。庭に大きなサクランボの木があり、家に覆ひ被さる風情で繁茂してゐる。腰高の一階建て、数段の階段を上がって玄関からお邪魔する。

スターン先生は六十歳程か、しゃきしゃきとした語りで日本のこと、私のこと、渡米に至る経緯からボイシを選んだ理由などなど、女性らしい詮索調で聞き出しては、面白い、大したものだなどと頷かれる。話される英語は気なしかゆっくり目で、夏期休暇中のアルバイトでトムとの掛け合いで覚えた米語が結構役立ってゐる。

しばし私に関わる話題が続いて、これは不味いと思った私は、ところで先生のご専門はと訊ねてみた。迂闊にもそれを知らずにいたことを手落ちだと思ったからだ。先生は即座に物理だと云ふ。私はぎょっとした。ぎょっとしながら先日stuent counsellorが最後に云った大いに結構だとの言葉を思ひ出した。同時にチェイフィー先生の顔が浮かび、今日の出来事に至る筋書きが即座に読めたのだ。英語が未だ辿々しい私が不得手の理系科目を取ることに周囲の人々が時ならぬ配慮をしてくれた次第が読めたのである。

ご専門が物理と聞いてぎょっとした、そんな心理状態を見抜かれまいと、私はさり気なく話題を振り、先立って気になる大学生活のあれこれについて先生の手引きを求めるなどをして場を濁したのである。

さして広くもないボイシのこと、この際だから見聞を兼ねて徒歩で帰寮するからと、私は先生のお宅を辞して一路、寮を目指して歩いた。山麓に拓けた街だ。道路はすべて碁盤の目、何street、何avenueと分かりよい。日本ほど人がいないと見えて、車の動きもまばら、時折栗鼠(りす)が横切るほかに生体反応は滅法ない。

小一時間で帰寮、私はシャワーをとり着替えてベッドにドット横になって考えた。物理をとることになって担当の教授に目を止められ、おまけにチェイフィー先生の配慮もあるとなると事態は容易ではない。不得意のなんのとは云ってはをられぬ。手元には物理の本は皆無、敢えて英語の物理参考書を買うのも如何にも慌てふためいているようで見苦しい。万策尽きた。かくなる上は、浦高で嫌々ながら学んだ物理と地学の知識に縋るしかない。

さう思ったら鬱陶しさがやや萎えた。直ぐにでも始まる講義を怯えても詮方ないが、すべてが英語で行はれることに戦慄に似た緊張感を覚えた。

そして始まった新学期、今にして思へばあの頃は記憶に残る新鮮な出来事の連続だった。この苦学記では、追々にそれをご披露させて頂くが、「スターン先生のこと:その2」では、問題の物理の講義で起こった思わぬ出来事についてお話ししやうと思ふ。

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