これは巷の祭りではないが、筆者にとっては秘かに跳ねて踊るほどの大祭りだ。ちょっと横道に逸れはするが、世に云ふライフワークに古典落語の英訳と云ふ作業を背負ってゐる筆者は、いま古典落語十二席と云ふ企画を進めてゐる。すでに二席を積み、次ぎに取り組んだ一席が先日上梓された。古今の名作「火焔太鼓」、それも五代目古今亭志ん生を聴きながら紡ぎ出した自信作、それが公になった出来事は、筆者にとっては天下の一大事、跳ねて踊るほどの大祭りなのである。
そもそも粋な江戸落語を英語なぞで語れるものか、と云ふ思ひがありながら英訳に手を染めたのには、じつは深い理由があるのだ。馬鹿笑い一辺倒の漫才の亜流である上方落語が安易な英語落語のメディアムになり、英語を手軽なお笑い芸と勘違ひした外人の某が日本語交じりの英語落語を披露して評判になった。それを契機に英語を習ふ手立てとして落語を英語で語る風潮が広がった。
ちなみに、上方落語の桂枝雀が奇天烈な英語交じりの落語で落語を色物に仕立てた仕草も、功罪相半ばしてゐる。
それやこれやで、上方落語の英語化が英語落語の主流になった。縫いぐるみ話しや話し手のはしゃぎで笑いをとる”落語”に馴染んで、噂の日本の話芸「落語」とはこういうものかと心ある外国人を戸惑わせている。
このたび古典落語を厳選して英語化しやうと云ふ突飛な企てに及んだ裏には、左はならじとの筆者の思ひが滾(みなぎ)ってゐる。落語が笑ひの話芸だとは知る人のついぞ云はぬことだ。「文七元結」がげらげら笑ひの泉だとは笑止の至りだし、「芝浜」のおちで熊が久し振りの一杯を控える心情に腹を抱える野暮はゐない。
落語の笑ひは、いわばくすぐりへの反応だ。にんまりから得たりやおうの心境であって、けっしてげらげらではない。圓朝以来の江戸落語はそんな心情が裏地の噺ばかり、だから面白おかしさは二の次、三の次だ。今次は「心眼」を英訳して様子を見たが、この噺が英語でどう受け入れられるかについては、期待の裏に懸念もある。「鰍沢」がありうるか否かもこの噺の帰趨にかかってゐる。
話が逸れる前に本題に戻らう。三席目に「火焔太鼓」を持って来たには一理ある。江戸落語の語りの芸を英語で再現できるかとの問ひに是と応じやうとの試みだ。甚兵衛の女房や屋敷侍との掛け合ひがいのちのこの噺、さて紅毛碧眼の外人がこなせるか、が筆者の楽しみなのだ。ひと言添へさせていただくが、この英訳古典落語は外国人に読ませるばかりではない、読み込んで語って貰ふためのものなのだ。その辺りを如何に唆して語らせるか、筆者としてはそれが楽しみでこの大それた企てに及んだ次第だ。
古典の江戸落語の英訳はまず十二席を皮切りに、あわよくば春夏秋冬に振り分けて全四十八席を目論んでいる。当年八十五歳の筆者は、九十歳までに果たすべき生業と心得て座り直している次第である。
さて、幸ひ大向こうから喝采などを戴ければ、それを肥やしに人事を尽くして、後はなるやうになれの心境である。
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