何処を向いてもコロナコロナ、いま世界はコロナにころころやられてゐる。常日頃から国民の健康意識の低い国、衛生面でのインフラが欠落してゐる国がもろに被害を受けてゐるのは、まあ当然として、日頃からいっぱしの近代国家を気取る国の中に、コロナの罹病率がぐんと高く死亡者数も五桁にも達する国があることが何とも意外、それに引き替え桁違いな仕方でコロナ禍を凌いでゐるわが日本の姿が雄々しくも見えるのだ。
さう、最近データを見れば日本の罹患総数は15677、死亡者数が927人(6/13日)で、どう見ても世界水準とは桁違ひだ。とくにコロナによる死亡者数では桁違ひを越えて場違ひの乖離が見られる。さて、これはだうしたことか、何が原因乃至理由でこれほどの差が出るのか。読者各位もあれこれ想像、推測をされておらうが、見解は千差万別で一致にはほど遠い。
世界の目は兎角に邪推めいており、日本は数字を操作してはをらぬか、なにやらと云ふ治療薬を持ってゐるのではないか、国民が結核の予防接種(BCG)を受けてゐるせいではないか、日本人が特殊な体質でコロナを上手く捌いてゐるのでは、などなど、手に負えない意見などもネットに流れてゐる。
さて、果たしてだうか。
いらぬ議論は措いて、躊躇(ためら)わず断言しやう。理由は簡潔、日本国民に共通して流れる美的感覚がそれだ。美なるものには清潔と清浄への思ひが底に流れ、人情や思ひやりもその範疇に入る。それら、総体的なよきものへの思ひを日本人たるもの豊かに抱いてゐることが、コロナ禍を此処まで巧みに凌いでゐる理由なのだ。
本稿を書いている時点で、東京は明日零時にも「東京アラート」を外すという。それと聞いて街角の都民は「まだ早過ぎはしない?」「また(罹患者が)増えたら困るのに」と答えて要心している。外されたぞ、それどっと押し出そうという感覚はさらさらない。この内なるブレーキのあるなしが数字に表れるのだ。
どこかの国では、外出の縛りを解いた途端に罹患者が瞬時に増え、慌てて元の自粛規制に戻している。ニューヨーク州では24000人の死者があり罹患者も増えているのに、経済活動を求める市民が街に繰り出している。結果は目に見えているのに、である。
この辺り日本国民の節度は桁違いに高い。食べ物屋の縛りがなくなった、よしきたと店々が暖簾をだした。だが、客は相も変わらず来ないかごく薄い。地方の旅館にしてもそうだ。縛りが外れても客数は一向に増えない。旨いものを喰いたい、旅をしてコロナの鬱憤を晴らしたいのは山々でも、客足の伸びはいまいちだ。
世界が驚く「日本のミラクル」はこの辺りに理由がある。日本人の几帳面、よかれと思ふ心根が、コロナをすっきり収めようという気持が、云はずもがな、誰云ふとなくあるのである。
日本人は稀有な民族、その母国日本はスーパー国家なのである。いや、これは自画自賛ではない。いずれコロナが去って世界が落ち着きを取り戻すとき、世界は日本と云ふ国をさう呼ぶに違いない。さう呼ばれて恥じぬように、未曾有のコロナ禍を機に母国の有り様をしっかりと見直そうではないか。
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