わが庵の庭はいま正念場だ。かねての芝がどう育つか、と云ふ只ならぬ状況なのである。何本かの樹木をそのために伐り、ささやかな花壇を設(しつら)へて一面グリーンの絨毯を敷き詰めようと云ふ思惑が、さてどうなるかと云ふわけだ。
雑木の日陰でそれでなくとも狭い庭が妙に鬱蒼として、わずかに残る何間四方を芝にして堪えてゐた不満が高じ、昨年秋口に健太のクルミを残してひと思ひに雑木を伐った。日陰が失せた地面を養生して芝生の種を撒いたのが2カ月前、ちやうどコロナ騒ぎで巷が只ならぬころだった。あたかも気象が異常で、すっきり発芽すると思った芝が一向に出ない。コロナの悪疫が地面にも染みたか、と思はせる異常現象だ。たしかに妙な気温の上下があって、播種の時機を誤ったかと悔やむことしきり。ほとほと神経を磨り減らしたのである。
わが庵の芝は伝統的にセンチピード系の地面を這ふ芝で、ひとたび発芽すれば地熱に応じて見る見る増える。しかし前世代のそれが一向に伸び損ねてゐるところを見ると、やはり気象の異常に因があったらしいのだ。それが此処2日ほどの高温続きで、やうやく動き始めた。新世代の種も出芽、一挙に1センチほどにのびてゐる。(トップの写真)
思へば、芝の管理は自家薬籠中の芸だ。アメリカ時代のわが釜の飯、負けず嫌いが昂じて芝管理の蘊蓄を大いに深めた。わが庵などとは埒外、見渡す限りの芝を仕切る知恵は半端ではない。センチピード系の活気ある芝の生理を知り尽くす根気がいる。それでも苦学を支える資金源に緑の管理は格好で、私は芝との付き合いを愉しみすらしたのだ。
いまかうして雑草交じりのセンチピードを見ながら、気懸かりと愉しみの入り交じった感覚に浸ってゐる。遠い昔の、もう手の届かぬ記憶、それでも目を閉じれば鮮やかに見えるアイダホの色、空の紺碧と山地の泥茶、それに地面の緑が三色織物さながらに瞼に浮かぶ。その中で、芝の緑は何と鮮やかこと。
それやこれやで、ここ一週間ほどは芝の養生に明け暮れてゐる。家族の立ち込みも禁じて水やりと雑草処理に勤しんでゐるのだ。これらの気遣いがいずれ実を結ぶことを知ってのこと。晴耕雨読には格好な習慣、この時期に欠かせぬ土いじりは何の苦にもならない。
草取りに疲れて彼方を見れば、いま、いんげんが誇らしげに弦を伸ばしている。その向こうにミニトマトが一対、さてとばかり上へ上へと幹を立ててゐる。片や一面の馬鈴薯、此方玉葱が程ない収穫を待ってゐる。
コロナが都市部でようやく収束の兆しを見せてゐる。この武漢の汚物が消え去る頃には、わが畑は景色が様変わりし、芝の這ひも堂に入ってゐることだらう。
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