ときは春、ご存知コロナ騒ぎで今年は花の便りも湿りがち、上野の桜はすでに盛りだが寄せる人並みもなく、見やうによっては清々しい花見だ。
わが庵では昨年11月、老桜を伐る羽目になり、コロナならずとも寂しい春だと思い定めてゐたが、何と、その老桜が花を咲かせた。伐られて命絶えたはずの老桜が、どっこい生きてゐた!俺は死んではおらぬと、南側の根元付近に一、二輪、鮮やかな花をつけて見せたのである。驚きである。枝ならともかくいきなり花をつけるとは・・・。
この老桜を伐るについては止むない事情があった。(「老桜よ、さらば」参照)何時かな脇枝で出れば先々咲かせたいとは思ってゐたが、伐られて半年で直に花を咲かせるとは、人ならぬこの老桜の思ひを忖度すればぐっとこみ込み上げるものがある。
「桜伐る馬鹿梅伐らぬ馬鹿」などは知らぬではなく、電線に触る災ひさえなければ伐らなかった筈のこの老桜、敢へて伐ったときの空しさは忘れられない。伐り口をまめに養生しても、材木の活用に腐心しながらも、伐ったことの後ろめたさは心に深く沈殿し愉しむことはなかった。
老桜は活きてゐる。この一、二輪の花を見つけたときの安堵感は例えやうがない。これを手づるにこの老桜にもうひと花咲かせたい、との思ひがいま沛然(はいぜん)と沸いてゐる。
われはすでに老骨、その再びの花盛りを見届けることはできまいからとて、いま、わが老桜の再生を悦ぶ傍ら羨む思ひも抑えきれぬとは、なんと未練な。
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