どうも思い出せないのである。ボイシの西の方、YMCAにほど近い、いまでいうスーパーだったが、その店の名前が思い出せない。私が折に触れて思い出すほろ苦い出来事の起こった場所だから、店長の姿、話し言葉、店の佇まいは60年経ったいまも鮮明に思い出すのだが、名前が思い出せない。もっとも店長のそれも覚えているわけもない、はるか昔のささやかな出来事だった。
ボイシ時代の私は常に貧乏だった。それもそのはずで、大学構内で保証された仕事は安定こそしているが収入は学費と寮費でかつかつ、もらうチェックが右から左へかすめてゆき、後に残る生活費はコインにドル札が2、3枚だった。いきおい身なりは着た切り雀、テキスト以外の書物を買う余裕はなかった。
20歳そこそこの身に空腹は拷問だった。寮の飯はほどほどで、四六時中動き回る体は、常に補助的な食い物を求めていた。大学近くのスーパーでウイナーソーセージを買ってマスタードにどぶりと浸けて食う習慣は、早くから身についた。ウイナーなどという食い物は渡米するまで見たこともなく、寮食で茹でた奴が滅法気に入って、茹でずに食えることを覚えてからというものは、10本ほどのパックを開けて即座にマスタードに浸けて食うのがくせになっていたのだ。
夏のある日、折から寮が部屋の化粧直しで閉鎖され、YMCAに一部屋を借りて移っていた私は、最寄りの例のスーパーに食い物を買いに行った。その日は確か2回目で、大学近くの店よりかなり広く、品揃えが多彩だったから気に入っていたのだ。店長らしき人の振る舞いに、どこか友好的な雰囲気を感じたのだが、その時はどうという意識もなかった。
もちろんながらウイナー2袋、デーオールド(前日に焼かれたやつ)の食パン、スキムミルクにオレンジ3個、それにチョコレートバー2個をカゴに入れる。その日に買える予算ギリギリの品揃えだ。わりと客が薄く、レジは1箇所だけ開いている。私はささやかな品揃えのカゴを出して清算の心づもりをし、財布を構えた。レジは店長が捌いていた。
私のカゴを見るなり店長は、
「これだけですか?」
と聞くのだ。
妙な問いかけだと訝ったのはほんの一瞬、私は次の店長の言葉にドキマギした。(この辺りの受け答えをそのまま英語で書けば、とんだ英語講釈の材料になるが、話の流れから省くことにしよう。)
「どうですか、もう少しあれこれ持ってこられては?」
「?」
「いるものをもっと持ってらっしゃい。好きなだけ・・・」
私は何故かと聞いた。店長は、自分は日本で印象的な経験をした、日本人の親切が身にしみた、だから今日の買い物は店で持たせてもらう、と云って満面に笑みを湛えた。
私は言葉に窮した。店長の日本経験の詳細を聞きたかったが、押し付けがましくて聞けなかった。ものを恵まれる思いに苛まれて拒めば、店長は是非にと云う。それは余りにもと云えば、ささやかな気持ちだからと云う。何か内なる思いに阻まれて「買い足す」ことは固辞し、カゴの品物だけを好意に甘んじて頂戴することにした。私はひたすら赤面して頭を下げ、そそくさと店を出た。
YMCAに戻る道すがら、私は有難い気持ちよりは言い知れぬ恥ずかしさを覚えた。折角だからとさらに数品追加しておけばよかったと云うサモしい思いを慌てて打ち消した。店長にして見れば江戸の親切を長崎で返した気分だったろうし、私は見知らぬ江戸の恩恵をボイシで受けたことになって、えも言われぬ因果の妙を実体験した。情けは人のためならずという謂れに自分はどう当てはまるのか、大いに戸惑ったのである。
YMCAにはその後数日留まっていたのだが、もうあの店には足が向かなかった。店長に感謝の意を伝えたい気持ちは溢れるほどあるのに、物欲しげな様子を晒す辛さが先に立った。貧乏ながら恵みに溺れまいと云う虚仮(こけ)の一念から、ついに出向けなかった。
寮へ帰ってからもその気持ちは重く残り、ボイシを去る時もあの店長に挨拶をする機会を持たなかった。ボイシ時代の思い出は苦楽多々あるなかで、あの日の出来事はほろ苦い後味が尾を引いている。
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