再三の膝ばなしで恐縮だが、術後のリハビリを卒業したので、この際はるばる来んぬるかの感慨を書き残させて頂きたい。両膝に金属の人工関節を仕込まれる違和感に苛まれ、術後の痛みを負ってのリハビリは、さしも剛毅の私が窃かに音を上げるストレスだった。それを乗り越え、一丁上がりまで漕ぎつけた感慨には、知る人ぞ知る無量感が漂う。
切ったばかりの両膝が妙に固まらないようにとの思惑か、リハビリは手術翌日の午後から始まった。両脚は膝から下がまったく無力で、両肘だけを支えに曲がりなりの前進移動は到底歩行ではなく、歩行器頼りの「立体体重移動」だった。それでも肝心の膝は人工関節が見事に稼働して、切開傷の痛みに堪えれば取りあえず前進可能だった。
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当初から担当してくれた木ノ下さんはまだ30代の理学療法士、場慣れした患者扱いでてきぱきと指示をくだす。即座に私の意地っぱりを見抜いたか、彼はいともさり気なくその全身移動を課し、術後3日目には病室の四階上のリハビリ室に単独出頭を命じたのだ。未だ無理と云えばいいいものをそこは勝ち気、私は悠然と承知、ひたすら歩行器に頼ってリハビリ室に出向いたのである。
その日から十日余の院内リハビリが始まった。午前午後に2回、連日のリハビリはそれぞれ1時間、木下技師の担当で退院まで続いた。(メニューの内容は、近日出版予定の「膝、入れ替えるの記」に詳しい。)入れた金属が骨に馴染むまではうっかり体重を乗せられない。その辺りの阿吽を心得て木下技師は膝回りの筋肉や腱を治療する。手馴れたものだ。
術後ほぼ2週間足らず、院長回診で私の退院が決まる。暇さえあれば廊下を歩いていた私を見ていた同室の荒木さん(野田の人で同じ日に手術を受けた)は、やっぱり先を越されたかと羨むことしきり。こうして院内リハビリを済ませて退院、院外(外来)リハビリに切り換えた。週1回、3ヶ月を目途のプログラムである。
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苑田会病院は足立区竹ノ塚駅に近く、桶川からは車で小1時間だ。ドライブ好きとは云え愚妻には厄介の掛け通しだ。あれこれとルートを組み合わせては時間合わせに勤しんでくれた。
院外リハビリでは担当技師が大島さんに替わった。闊達な女性である。木下技師に劣らず前向きのリハビリのプロ、男顔負けの腕力で両膝を弄ぶ。流石に専門で、痛くとも痛いとは云わぬと宣言する私の裏を掻くように、痛いところを狙って揉むのである。聞けば、堅い筋肉ほど痛むとのこと、それを和らげる愛の手だと嘯(うそぶ)くのに思わず苦笑。
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2ヶ月が過ぎ、リハビリはやがて隔週になった。膝の不具合は日を追って薄れ、課されるメニューも筋肉増強に移る。そんなある日、日本語の分からない患者がいると、手助けを頼まれる。イタリア人でシシリーの出身だ。シシリーと云えばマフィアの故郷、そういえば背丈は程ほどだが太めの筋肉質で、ひょっとするとと思ったが、話してみればシェフだという。軽い世間話でストレスを消してやれば大将はご機嫌、助かったと有り難がられた。その様子をリハビリ室の誰もが見つめていたが、思えば奇体な情景だった。彼を担当していたのが木下技師、私の手助けを至極有難いとの弁。
それやこれやで3ヶ月の院外リハビリが終わった。院内外のリハビリで世話になった木下大島両技師(写真)には格段の世話になった。鮮やかに切ってくれた杉本医師もさることながら、歩けるようにしてくれた2人の技師に満腔の感謝を述べたい。有り難う!
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膝治療一丁上がりのいま、私は正真正銘独り立ちになった。もし手術の決断をしなければ、早晩車椅子生活を余儀なくされたかもしれなかった。脚をもがれる間際に助かったいま、ここはもう一丁頑張ろうと想いを新たにしている。
膝ばなしのオチ、お粗末でした。
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