英語指南の仕事で、いっとき都下府中に行き来していた。その折りの世間話で、新撰組の近藤勇があの辺りの産で、風土記風にその逸話が語られている事情を知った。分倍河原などの古戦場もあって、とかく武張った風土がどこか気に染む土地柄ではある。
令和のそれと称して先般の参院選挙で奇体な政党が名乗りを上げ、これも奇体に228万票もの支持を集めて二人の身体障害者を国会に送り込んだ。山本某というさながら口から先に生まれた奇人が、此処を先途と喋りまくって籠絡した二人の障害者たちの心底は忖度すらも出来ないが、現実にそれだけの数の人間がよしとして送り込んできた二人のほぼ身体不虞の議員の扱いに、開会を旬日に控えた参院がいま転手古舞(てんてこまい)し、開会までにバリアフリーの真似事をし遂げた。登院した両人はそれぞれ介添人の手を借りて賛否の意を伝え、各々(おのおの)今後の抱負を語った。
両人の議会活動の一切を行政に丸投げした山本某は、自ら打ったスタンドプレイの成果にほくそ笑んだはずだ。新撰組のとんだ迷惑であり、近藤勇のえらい災難である。流石は芸人、この奇人はその主宰する政党の比例代表権を二人の身体障害者に譲り、彼らの立ち居振る舞いに己の政治主張を託したのだ。自らがバッジを張り舌鋒を振るって薄っぺらな主張を吠えるより、誰の目にもこれぞと分かる不虞者二人の視覚的効果を敢えて選んだ凄腕は、ひたすら敬して止まない芸の奥義を垣間見る思いだ。
思えば、この伝の凄腕の切れ味には格好な前例がある。落語界の一方の立役者、立川某の俄(にわか)の政治家への転身がそれだ。じつは筆者が愛する古今亭志ん生をこよなく慕う彼を悪し様には言いたくはないのだが、何の政治的成果を生むでもなく、只々らしからぬ気障な言葉遣いで巷の失笑を買った為体(ていたらく)はどう見ても頂けなかった。この立川某の失態を懲りずに再演している山本某の厚顔無恥を、呵々と笑わねばならない。
この仁は、ひとの口に上る屈折した愉快を妙に愉しむ風情だ。一幕のスタンドプレイを制作して、その作者たる己の姿をえげつなく衆目に晒す芸人のど根性には、ただただ恐れいるのみだ。当代の芸人が何と芸域を広げたものか。元締めの吉本興業が愚鈍な社長を戴いて醜態を晒す中、当の芸人は政治をエンタメと混同したか、大向こうを唸らせる舞台を仕組んで見せた。これは見事である。芸の極致を垣間見せた一場の快挙だ。
さて、これは真面目な話である。身体障害者の福祉と彼らをめぐる環境改善の問題は、ことバリアフリーの話を越えて広く深い。これに如何に対処するかは、この手のスタンドプレイを患わすまでもなく、否、患わすことなく粛然と論じられねばならない社会的比重の高い問題だ。このたびの一場の【劇】が、もし、テレビに映るご両人の見るからに多難な挙動を見てことの重大さを悟るひとの多かれかしと図ったものだとすれば、それは策を誤った社会的責任の転嫁だ。不虞に難度の差があるとすれば、ご両人は平均を遙かに上回っており、実社会にはなお社会に貢献できる難度の障害者が溢れている。バリアフリーを云うなら彼らの挙動を助ける規模の仕掛けを浅く広く図ることこそ英知と云うべきだ。
もう一歩踏み込んで論じれば、そもそも国会に身体障害者を登用しようなら、ご両人より遙かに機能にゆとりのあるものを選んで、招いて演壇に立たせ、自らの口説で身障者の実態を語らしめ、自らの経験に根ざす政治的提言を吐かしめることにこそ政治効果が最大限に図れるというものだ。
要は、このたびの珍奇なパフォーマンスで新撰組は悪戯(いたずら)に迷惑を被り近藤勇は故ない災難にあったとしか云いようがない。股ぐら膏薬さながらにあちこちと彷徨う政治家を気取るこの芸人は、早々と舞台を畳んで生まれ故郷の河原に舞いもどることこそ肝心と諭したい。
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