英語という外国語を知って70年余、いまはこれに第2母国語ぐらいに親しみ、日常の読み書きにほぼ不自由しないまでに「精通」したつもりなのに、ただひとつ、何処となく頼りないことがある。大仰なことではない。冠詞のことだ。そんなことはあるまいと思われる向きは初心者か半端な英語使いだ。数ある品詞の中で冠詞ほど悩ましい奴はない。
外国語数ある中、じつは英語は割合楽に覚えられる言葉だ。立場を替えて、日本語を覚えたい外国人のストレスと比べれば英語のストレスなどはものの数ではない。文法からして英語は日本語より余程容易だ。日本語独特の曖昧さからくる不規則性などは、文法の埒外ですらある。いま英語を勉強している人たちには、これは朗報のはずだ。
英語好きだった筆者は、実地でそれを体験して此処まで来た。此処までとは、84歳の現在も英語での書きものは自由自在、ウォークマンで英米文学作品を原語で愉しむ境地に遊んでいる。スタインベックの「エデンの東」、ミッチェルの「風と共に去りぬ」、モームの「人間の絆」を聴き終えて、いまマーク・トゥエインのものを探している。
テーマから離れたが、そんなに英語に親しみながら冠詞が苦手とは、と訝(いぶか)られる向きがあっても当然だ。苦手よりは不気味と云うのが本当のところだ。不定冠詞はこうだ、定冠詞はこのようにと教えられて覚えた規則はごく簡単だ。冠詞を「どう付けるか」という話は明快でごく初歩のテーマだ。だが、冠詞を「どう付けないか」の話になる途端にややこしくなる。
抽象名詞は冠詞要らず、と覚えるまではいいのだが、普通名詞が無冠詞で出現するとぎょっとする。night and dayなどはジャズにもある、father to sonは聞き慣れたイディオムだ。hit and run(おっと、これはvvか)、head to toeなどもつい口に出る。この手の言い回しが口語にも文語にも5万とある。あれもこれも文章や表現を無性に豊かにするから妙だ。hand to mouthと云ってその日暮らしの様を表現できる愉快は、かなり高等な書き手が味わうものだ。
つまり、冠詞の悩みは「どう付けるか」でなく「どう付けないか」にあるのだ。法律の話で「ない」ことの証明が難儀だという。どうやら冠詞の難しさはそれに似て、並みの文章に並みの冠詞を付けながら「ひらり」と付けない「状況」に対応するのはなかなかしんどいものだ。たかが冠詞されど冠詞の現実にぜひ目覚めていただきたい。
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