ボタンを掛け違うと云うことがある。掛け間違えて、ボタンが一個(まごまごすれば二つも)穴がなくて途方に暮れるという状況だ。その結果、ものごとが筋違いになってまとまらぬと云うことになる。
先日、保釈中の男が出頭を求めてきた警官らに刃物で刃向かい、何と逃走し遂げて旬日世間を騒がせたのち捕まったという事件があった。事件の推移はご案内のことだから詳述は省く。ここではこの事件が含む不可思議な側面と事後処理の不自然さを取り上げて、世迷い言流に捌いて(いや、裁いて)見ようと思う。
指摘したいのは三点、どれも大方の賛同を得られるだろう。一つ、保釈中の者に出頭を求めて警官を含む数人の役人がその自宅を訪れ、刃物で抵抗する彼を押さえ込めなかったこと、二つ、彼が車を駆って逃走した非常事態を警察が数時間に亘り公示しなかったこと、三つ、逮捕以降の検察側の対応が同様の事件の再発生防止を誓う「遺憾の意」どまりで事件の幕が引かれるらしいことだ。
まず、二人の警官を含む数人の男たちが、刃物を持って戸口に現れた男をなぜむざむざ逃がしたか。警官たちは拳銃と警棒を備えていなかったのか。刃物が怖くて逃げ道を開いたのか。逮捕の常道として臑(すね)を狙って警棒を振るうなり、逃げる男の脚部を撃つなり、逃走車のタイヤを撃ち抜くなりの処置はできなかったのか。
次ぎに、事態発生の告知を数時間伏せた動機が稚拙に過ぎることだ。捕らえてから公表しようとの判断の裏には、男を取り逃がした不手際を糊塗しようという保安の公器たる警察・検察の愚行がある。
そして、男の逮捕で社会への実害が防げたとはいえ、検察の公式の見解は前述の如く事件への「遺憾の意」と、同種事件の「再発防止を計る覚悟」で幕が引かれようとしていることの不自然さである。初動の不手際は単に反省したばかりでは帳消しにできまい。些少の負傷を覚悟して刃物を翳(かざ)す者を叩き伏せるべきは当然だった。再発防止を誓うなら、まずあのような状況に対処策を具体的に明示すべきではなかろうか。緊急時での拳銃、警棒などの使用規定を明確に定めるべきであろう。
此処で話をひと捻りさせていただく。一連の経緯を追ってみると、ひとつ奇妙なしかし一部では当然とされているらしい問題が露呈する。歪んだ人権問題がそれだ。このところ、身柄拘束を最小限に抑えて被告の権利を守るという観点から、保釈を認める傾向が強まっているらしいのだ。また、再々出頭を求めて叶わず、このたび人数を揃えて拘束に向かった如何にも慇懃な処理の裏にも、凶悪犯と云えるこの男の人権への斟酌があるようだ。よもや悪人正機を地で行くわけではあるまい。犯罪者にすら人権が付与されるべきだという感覚は人権意識の過剰そのもの、何とも噴飯ものだ。英語にはbenefits of doubtという言葉がある。疑義の利益という直訳では意味合いがずれるが、ちょっとでも「どうかな?」と思うなら犯人扱いはするな、というほどの感覚を出ない。それを拡大解釈し現代版悪人正機論を張る愚は何としても肯(が)んじえない。
今次の事件で検察は、問題処理のボタンを掛け違えた。望むらくは、検察が今次の事件を真摯に総括し、歪んだ人権意識をかなぐり捨てて、保釈対象の者を含む犯罪者の扱いについて理路整然とした対策を打ち出して欲しい。転んでも只では起きぬ気概で、ボタンをしっかり掛け直して欲しいものだ。そして、改めて報道の公器を通じて本来あるべき検察の立場を明らかにして、心ある人びとの検察への疑念乃至は懸念を払拭して欲しい。
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