只今「膝すげ替えの役」から戻った。そう、これはまさに文永弘安のそれに等しい戦(いくさ)だったのである。なにせ、生身の、親から産み授けてもらった膝を二つともバッサリと切り取り、チタンの人工膝にすげ替える畢生の戦役だった。痛いの辛いの斟酌とは違い、生身を無機物に入れ替えるなどは、考えるだにおぞましいことだが、これを勝ち切らねば余生は暗黒ならぬ灰色になろうという瀬戸際、髑髏(しゃれこうべ)が割れるほどの熟慮の果て、ええいままよと踏み切った、講釈師に頼めば一世一代の賭けだったのだ。
唯一の救いは人工膝のgod’s hand杉本医師の小気味良い断言だった。
「これまでよく我慢しましたね。任せなさい。三十年は保つ膝を差し上げましょう。」
この一言で漠たる悩みは一霧散した。よっしゃ、これで決まった。やるからには並み居る患者たちの後塵を拝するわけにはいかぬ。2週間で出られると言うならその半ばで出てやろうではないか、中をとって見事10日で歩み去ってやろうではないか。そんな気迫で入院した。
苑田会人工関節センター病院。これはなんとも記憶に残る素晴らしい病院だ。いま治って出てきたから云うおべんちゃらではない。受付に立った時から手術の麻酔に眠らされるまでに4ヶ月半かかったことからも、並みの病院ではない。石橋を叩いて渡る慎重な事前チェック、体調を把握する何十種類もの検査にそれだけの時間を掛けた。薬を飲むまでもない糖尿病にこうまで拘るのかと訝りもした血液絡みの試験と検査は、ひょっとして俺はまともな糖尿患者かと思いかねない徹底した検査だった。
そればかりではない。どこか傷はないか、歯は痛んでいないか、歯医者の太鼓判が欲しいなどという。それもこれも、血液サラサラを呑んでいることからくる血液管理の必要からだと、やがて分かった。手術そのものものよりも術後の管理がすべてだということを聞き知った。
父母に受く身体髪膚をあえて毀傷するならここに限ると、この病院と杉本医師に下駄ならぬ膝を預けたのである。人工関節に特化したこの病院は大相撲の力士たちが引きも切らない。白鵬も世話になったとか。相撲こそ取らぬが何かと動きが多い身には膝の骨の擦り合いは堪えられぬ。凹脚だから膝の外側半分で蠢いていた様(さま)は、杉本医師ではないが「よくもまあ今まで・・・」の体(てい)だったわけだ。
一つことに特化した病院は看護士から理学療法士までこの道のベテランだ。麻酔・手術・リハビリと一貫体制が只ならぬ。料理なら一流料亭の厨房から茶席まで毛ほどの緩みもない流れ作業で、客ならぬ患者たちは麻酔台に乗った瞬間から人工膝で歩くまでの2ー3週間をいわば病院船「苑田丸」上で過ごすわけだ。
同病相憐れむとか、病室では病む膝突き合っての戦友同士、互いに労り合いながら内心退院を競う心理が交錯する。内心を云うなら、10日目には出てやろうと高をくくっていたが、案に相違して2週間余、15日掛かった。それでも目一杯の頑張りがあっての15日だ。よしとせねばなるまい。
チタンの人工膝に生まれ変わったいま、歩きに歴然とした新世界が広がっている。杉本院長以下「苑田丸」のスタッフ一同に唯々感謝感激である。30年は保証するというこのチタンの膝、百歳まで16年を賄うには十二分だ。身体髪膚を毀傷した不孝を母も疾うに許してくれていよう。快哉。
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