古典落語 「心眼」 の英訳 The Mind’s Eye の上梓にあたって
めっきり秋になった。気温が下がったらまた飲むという取り決めで、数日前にM医師(上野毛のかかりつけの医者)からもらってきた血圧の薬を眺めて、さてどうしたものかと思案する。今朝の室内気温は21℃、春先と初秋にとかく風邪をひく私にはまさに今時が「危険水域」なのだ。
とは言え、秋色はこよなく嬉しい。
秋はもの書きの候、頃合いはよし、久しく温めていた三遊亭圓朝の「心眼」の英訳をようやく上梓した。Kindle版の電子本だが、愚妻がイラストを自作するなど結構気合いの入ったものに仕上がっている。あたかも驢馬が追いかける十二本のニンジンに似せて、暦を気取った十二篇の古典を選び抜いて鼻先に並べた。
ほかにも外人たちが英語で日本語を習うマニュアルや、英語下手の日本人が改めて英語に目覚めるためのガイドブックめいたものなど、ニンジン以外にも追いかける「食い物」を食べかけているから、この梟翁ケッコウ忙しいのである。
さて、この古典落語の名作、圓朝の「心眼」だが、あのほろ苦い味わいをどう英語で表すか、チャレンジと言えばチャレンジ、暴挙と言えば暴挙に近い。が、言葉を操る面白みにはまっている私には、そこがむしろぞくぞくとした愉快なのである。
英語で落語を語る文化はほどほどに育ってはいるが、概ね滑稽話を所作で補うやっつけ仕事の域にとどまり、落語本来の言葉の遊びや筋書きの趣などを味わう境地には程遠い。げらげら笑いが落語だと思われる侘しさと言い知れぬ無念を雪(そそ)ぐ一心から、圓朝の語りを英語にする暴挙をあえて冒したのが、この The Mind’s Eye (心眼)だ。
フジヤマゲイシャは流石にいまや過去のこと、外つ国びとの日本の印象は振れまくって、今はマンガやアニメが主役だ。それもよかろうが、私にはいまいち面白くないのだ。もそっと深みのある、もそっと趣きのある日本像を創って世界に問いたいと思う。歌舞伎もよかろう、能も文楽もいいだろうが、人の交流を促す媒体として語りの文化、ずばり人情味溢れる落語の魅力を外つ国びとに味わってもらいたい。初っ端(しょっぱな)に選んだ「心眼」には荷が重いミッションかも知れないが、私の気ままな気概がここにこそある。
そもそも英語で落語を語るにはおのずから限界がある。その理由は、一つには言葉の限界、二つには《話芸》のあるなしだ。
言葉は文化そのものだから、落語を彩る語彙が英語にないとしたら、翻訳そのものが無意味になる。そこを何とかして《横にして》も話がぶち壊しになっては身も蓋もないだろう。言葉の限界は想像以上に大きい。
さらに、高座で座布団に膝行(いざ)り込んで一席うかがう文化はそもそもあちらにはない。今風にいえば《フオーマット》が不在な処に、話の筋書きはさし措いて語りで勝負する《話芸》など、あちらには皆無といっていい。関西の師匠に弟子入りして上方落語を覚え噺家を自称する某カナダ人のハナシカは、言うなら仏造って魂を入れ損なっており、げらげら笑いの域に遊んでいる。落語人気を高める功績はよしとしても、下世話にいえば食い足りないのだ。なまじ英語が母国語なばかりに、語彙やシンタックスに横文字臭がきつ過ぎて正体不明の芸になっている。
あれもなければこれもない処になぜ「心眼」か、と問われて私自身答えに窮するのだ。ただ、敢えて答えれば、私は「心眼」を出汁(だし)にして落語を英語で語り尽くすShin-Uchi の出現を夢見ているのだと言ったら、お分かり頂けようか。
真打ちでなくShin-Uchiが生まれる筋道は二つ:一つには、英語が母国語の外つ国人が Charms of Rakugo に惚れ抜いて、落語の話芸を身につけ、語りの《間》の粋を会得し切って《噺を語り尽くす》境地に達するか、二つには、噺を知り尽くし話芸の粋を体現できる日本人が、文化としての英語を自分のものにして、息遣いから抑揚までこれが日本人かと思わせるまでに上達し切れるか、そのどちらかだ。
The Mind’s Eye は、仮に三遊亭圓朝が英語の達人なら、きっとこう喋っただろうとの思い込みで拵えた《台本》だ。噺に目覚めた外つ国人か、英語を薬籠中に収めた日本人か、どちらにせよ The Mind’s Eye を圓朝さながらに語り尽くす Shin-Uchi が出現すれば、私の願いは叶うのだ。叶えば、あと十一本のニンジンも追いかけ甲斐があろうというものだ。
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