まさかりかついで きんたろう
くまにまたがり おうまのけいこ
ハイシ ドウドウ ハイ ドウドウ
ハイシ ドウドウ ハイ ドウドウ
あしがらやまの やまおくで
けだものあつめて すもうのけいこ
ハッケヨイヨイ ノコッタ
ハッケヨイヨイ ノコッタ
そうじゃ、金太郎といえば熊じゃろう。熊に跨がりお馬の稽古というからには、金太郎が上手(うわて)で熊は操られる獣、その逆では物語にならぬ。
さて、何の話しか訝(いぶかる)向きに初手から明かすのじゃが、これは、実はその熊を虎に直しての寓話としてお聞き流し頂きたい戯れ言じゃ、ざれごとじゃ。
まず、虎なにやらという名の元首を頂くさる大国をご想像頂きたい。この虎どのが、さる小国の剣呑な(けんのん)な振る舞いに怒り、取り巻きの国々を恃んで只ならぬ経済制裁を加えた末に、その小国を統べる金なにやらという元首が音を上げ、白旗を揚げるに至ったという噂はとうにお聞き及びじゃろう。虎が金太郎を窮地に追い込むという、かの童謡にはそぐわぬ展開じゃ。
さて、お話ししたいのはここからじゃ。
一見、かの童謡にはそぐわぬと見えながら、わしにはどうもこの話、童謡の筋書き通りに展開しかねない懸念が拭い去れぬ。剣呑をいうならこの大国の元首虎どのの振る舞いこそと思えてならぬからじゃ。白旗を揚げると見せてこの金太郎、この虎を乗りこなす根性ではないか。金太郎の後ろに控える一方の大国の威を借りてなにやら企んではいないか。
そもそも件(くだん)の虎どのは、揚げた白旗に金太郎が織り込んだ『段階的』という骨を、それと知りつつなぜ呑んだのか。あの大国の元首に推されてからの虎どのには刃物を持った何やらを見るわしのことじゃ、功を焦って打つ札の順を違えたのではないかと案じられてならぬ。
功とは?それはその大国で今秋見込まれる中間選挙というお祭りでの吉左右(きっそう)じゃ。このお祭りを仕切れるか否か、虎どのには何よりの気懸かり、あれこれ出しては引っ込め引っ込めては出す政策の帰趨次第でその左右が決まろうというものじゃ。不法移民問題然り、例の壁話然り、そしていまやこの小国とのかけあいまでもが祭りを仕切る具と化しているかの如くじゃ。
さて此方、金太郎はこの虎を乗りこなさんの勢い、まさかりは兎も角、件の『骨』を虎に食わせてその喉元に引っ掛けたまま時を稼ぎ、あわよくば不快な手枷足枷を外させてこれを乗りこなすという、手練の技を見せばやの気配じゃ。
わしは熊に跨がる金太郎なら熟知しておるが、虎に跨がる彼の得体は知らぬ。父祖伝来の狡知を駆してわが罪なき民を拉致し去り、素知らぬ顔をして口を拭う非道な輩(やから)じゃ。度重なる掛け合いに言を左右してぬらりくらり、数十年を経て家人の苦衷は極まらんとの矢先、かねてわが宰相と近しい虎どのが金太郎との掛け合いに拉致札を打ち込もうではないかとの提案。得たり賢し、わが宰相はこの提案に乗り虎どのの片棒を担ぐことにしたのじゃが・・・。
この虎どの、例のお祭りの仕切りに忙しい最中、どれほどの誠意を持って拉致札を打ち込んでくれるか、何とも切ないものがある。わしは思うのじゃ。拉致話は所詮はこの小国との対面(といめん)の掛け合い、ならば虎どのの誠意もせいぜい口利きが限界じゃろう。万一にも本来の掛け合いのアジェンダにわが拉致話を組み入れる意図は、そもそも虎どのの心積もりにはなかろう。
いま、掛け値なしに金太郎の動きは鮮やかじゃ。自国内で四面楚歌の虎どのに、それと知っていま、あわよくば跨がらんの勢いだ。最寄りの某大国の思い入れを縁(よすが)に、核のどうのはいずれなし崩しわが拉致話なぞ何処吹く風と袖にして、颯爽とわが身の保全を期し去るのではなかろうか。
さてわが国はいかに身を処すべきや。鳥瞰するに、動乱以来七十年、虎どのとその大国はいま半島との絡みに飽いて手を洗い足を抜こうかの気配が濃く、この大国との安保の約束事は一枚の紙片にもなりかねない。ならば、わが国の採るべき道は他にはなかろうに。自らの手足の強靱化、これを措いて道はないのじゃ。
振り返るに、虎どのはその就任直後、選ばれた興奮に紛れたにもせよわが国の核保有にも言及さえしたご仁じゃ。虎どのの剣呑はそこにもあるのじゃが、以後の自国傾倒主義の言動からしてわが国の『自立』には大いに追い風を吹かせてくれるご仁と見受ける。
となれば、金太郎が虎どのに跨がり乗りこなす傍ら、わが国はその追い風を呼び込んでボディービルに励むのが智恵というものじゃろうが?戯れ言はさて措き、万が一にも虎どのの国の存在が半島から姿を消すならば、わが国の『ボディービル』は必須じゃ。しかと心に銘すべし。
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