こんな話はするのも野暮じゃが前稿「緊急治療か伝統か」の流れもありさらにひと言申し添えさせてくだされ。子供とのじゃれ相撲で「お相撲さんと取りたい」とごねた女の子が弾かれたという一件じゃが、例の問題に発展しておる。言わずもがな、女人禁制のことじゃ。
細かいあれこれは省いて、座興に力士との立合いに群がる男の子たちに混じっておった一人の女の子が土俵に上がれなかったのは怪しからん、と。今どき女人禁制は男女同権の「精神」に悖(もと)る、というのじゃ。如何かな、この話の底なしの滑稽にお気づきじゃろうか。何やら日記の伝で「おとこもすなるすもうというものをおなごも・・・」というならば、そもそもこの女の子は真っ裸になり、回しをつけて参上願わねばなるまい。
前稿の土俵の上で倒れた男性を介助した女性は相撲を取りに土俵に上がったのじゃないと強弁されようが、それは所詮は空しい空論じゃ。高踏な同権論や禁制論を言う前にじゃ、下世話な話、女風呂や女厠がないならいざ知らず、それぞれ男女と区分けした場所があるのを知りつつ、紛れもない女があえて男のために設(しつら)えた場に踏み込むじゃろうか。同権じゃ、あたしは男風呂だって入ってよかろうと嘯く女人がおったら顔を拝みたいものじゃ。
男女同権論の愚は、煎じ詰めれば区別と差別の違いを知らぬか敢えて気づかぬふりをするか、そのどちらかだということじゃ。風呂も厠も所詮は区別の文化じゃ。相撲なども然り、もっとも相撲には神事としての特殊性が際立っておる。神事では古来独特な文化を伝統として伝承しており、短絡的に区別差別で語り分けできないのじゃ。
話を戻すが、この女の子は多分相撲が好きなのじゃろう。大相撲のTV中継を見ても桟敷の相撲好きは男女五分五分じゃ。女性が相撲を楽しむのに何の不自然もない。が、世の女性たちは丸裸の自分たちが回しをつけて土俵に上がる姿を想像できるか、ということじゃ。考えるだに悍(おぞ)ましい。どうしても相撲が取りたいならブラにホットパンツぐらいは着けたいだろうから、勢い男どもはTシャツに半ズボンということになるじゃろう。これはすでに相撲じゃない。ネオ相撲とでも名付けて神事たる大相撲の埒外に置いてもらいたいものじゃ。
要は男女は差別はせずとも区別はせねばならぬのじゃ。厠や風呂の例ならずともその必要は随所に見られる。区別するには相応の理由があろう。そうしたほうが「何かにつけて好都合」程度の理由なら同権論の顔を立てて混合すればよかろうが、「それに限る」ほどの歴然とした理由があるなら区別すべきなのじゃ。差別ではなく区別ですぞ!
世迷い言のノリでこんな話は如何じゃ。卑近な例で電車の車両に女性専用車というのがあるじゃろう。あれは何のためじゃ?女性だけ、男どもは駄目というなら、何のことはない男子禁制の場ということじゃろう。その理由はと問えば痴漢防止、男どもの野卑な振る舞いから善良な女たちを守るための禁制じゃろうが。
そう言えば先日の女の子の扱いについて大相撲協会がまともなことを言っておった。女の子の危険を守るための処置だった、と。百歩譲ってあの子が男の子に混じって相撲を取ったとして、まかり間違えば怪我をする可能性は結構高かろうから、協会の配慮はごくまともだった。女性専用車の構想と同根の禁制感覚だ。
女人禁制論議の滑稽を極めつける話をして本稿の締めとしたい。天照大神というと神話を毛嫌う向きにそぐわなければ卑弥呼でもよい。日本は倭の古から女性に依って立つ国じゃった。社会現象として男性優位の時代があったにせよ、この国は根っから「おなごの国」じゃった。歴史上の出来事の影に常に生命感溢れる女性たちがおった。一豊ならずとも世に出た男どもの背後にはいつも賢い女たちの気配りがあった。女人(にょにん)たちはらいてうを待つまでもなく元始、太陽だったのじゃ。
ならば、その太陽を尊重すればとて禁制する謂われはなかろうが?世に言う女人禁制の原意は女人を守り危うきものから庇う仕来りじゃったと思えてならぬ。繁栄の要たる女人の安全を担保する伝統こそ女人禁制であると喝破する次第じゃ。
—Sponsered Link—
この記事へのコメントはありません。