スポーツの祭典といわれスポーツマンには華の舞台のはずの五輪が、いま体のいい政治テロに晒(さら)されていると言ったら、さて頷いて頂けるじゃろうか。沙羅ちゃんが念願のメダルを手にしたとか、羽生が怪我を抱えながら金を毟(むし)り取ったとか、五輪らしい話題が巷を賑わす裏に、どこやらの独裁者が実妹を送り込んで、どさくさ紛れに核のみならず己の野望も貫こうとの企みが滲み見えるのは、わしの勝手読みじゃろうか。
スポーツと政治の話は昨日今日始まったことではないのじゃ。政治的な的な理由で或る国の選手が出場できぬとか、ゲームそのものが開けなかったなどは確かにあった。政治テロ絡みの五輪もミュンヘンでの例があるが、表向きスポーツ精神を横溢させながら裏の政治的な企みが図られる五輪は、いま開催中のピョンチャン五輪ほどあからさまな例はなかろう。
現に世界の反対を押し切って核兵器開発に血道を上げ、大陸間弾道ミサイルを弄(もてあそ)ぶ国に、そもそも五輪参加の道が開かれよう筈がないとしたものじゃ。にも拘わらず合同と称して選手を送り、五輪に相乗りして独裁者の影武者を差し向けて「政治会談」に及ぶとは埒外にもほどがあろうというものじゃ。
仄聞(そくぶん)するところ、この一連の動きにどうやらIOCのバッハ会長の思惑があるらしいのじゃ。同氏はモントリオール五輪に西ドイツの代表選手として参加、東西分裂の悲哀が身に沁みたのじゃろう、今のピョンチャン五輪に南北朝鮮統一の幻想を見たのではなかろうか。それをいいことに北の独裁者は南のシンパ政権の長を籠絡して南北融和の一幕を仕組み、バッハ会長を介して五輪という場を借りた一幕の政治劇を公演した、と、そんな風なわしなりの分析を如何思し召されようか。
ミュンヘン五輪の如き銃声こそ響かぬにせよ、背後で立て続けに長距離ミサイルを打ち上げ、周辺に脅威を高めながらの五輪参加はいわば鎧を纏(まと)っての手踊りに似て、看過できるものではなかろうに。これをテロと呼ばずしてなんと呼ばんや?
五輪初のメダルに泣く沙羅ちゃんよし、華の500に輝いた小平よし、苦衷を乗り越えて五輪を制した羽生さらによし。しかし、じゃ。仮にもせよ、もし北の独裁者がその名の如く「金」を掠め取るようなことになれば、彼らの努力の結晶は即座に輝きを喪うことになるじゃろう。
ピョンチャン五輪の功罪はいずれ歴史が語るじゃろう。冬のスポーツを嗜んだことのないわしには、冬の五輪は夏のそれほどの魅力がない。じゃが、このたびの「テロ事件」の落ち着く先だけには目を離すことができぬのじゃ。
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