私は無類の犬好きだが、犬にも劣らず馬が好きだ。好きとはいえ飼ってどうとか、走らせてどうとか、畑で使役してどうとか肌身に触れあって好きだというのではなく、ひたすら馬という獣(けもの)への思いが半端ではない。
それが何故かと自問して見るに、どうやら軍馬の生き様に由来している節がある。軍犬もそうなのだが馬たちもかつて戦野に駆り出されて、多くが哀れ野に屍を晒(さら)した。騎馬として弾薬を運ぶ使役馬として、果敢に戦野を経巡り、敵弾に当たって仆(たお)れクリークに嵌(はま)って命を落とした馬たちが何千何万といた。
五つ六つの私は、父親に連れられて蒲田の愛国館で銀幕に映る馬たちの姿に小さい拳(こぶし)を握り見とれたものだ。「馬たちもああして戦っているんだ」、私はひたすら馬たちを可愛いと思った。だから、私はいまでもカラオケで「愛馬進軍歌」を唄う折に、歌詞に流れる「馬」の一字に動揺する。ましてそこに馬の姿でも映ろうものなら、途端に声が乱れ唄が途切れるのだ。
さて、下世話にいう馬齢を重ねて私は今日八十三歳になった。じつは心底いまだ六十ほどほどの年齢感覚ではあるのだが、他ならぬ馬の齢(よわい)ならば、甘んじて認めようではないか。が、よしや足腰にあれこれと思うようにならぬ障りがあれど、どうやらものを観る目はさしたる狂いなく、馬齢とはいえ八十三歳、いまだ老いを自覚できないのだ。そんな心境を素直に慶(よろこ)ぶべきか、それと気づかぬ疎(うと)さを哀れむべきか。
拘るようだが、なぜ馬齢と称して馬を引き合いに出すだろうか。牛馬というのだから牛齢でもよかろうに。なすこともなく歳を重ねる意味ならば、どちらにせよこの獣たちには心外なことだ。「牛馬の如く」とは過酷な働きだから、なすこともなくとは人間の傲慢だ。牛でなく馬だとするなら、馬の方がなすことが少ないといわんかの如くである。心外極まりないことだ。
そういえば「馬歯馬齢」というではないか。馬の歯はそろって立派だとの例えもある。亡母が「わたしの馬の歯がおまえに伝わったようだ」とシッカリした歯並びを自慢していたものだ。ならば馬齢は世にいう謙譲語ではなく元気を意味する「自慢語」ではなかろうか。ならば、馬齢を重ねたとは「至極元気に歳を取ってきたものよ」ほどの意味にもなろう。
気は持ちようである。文字を操り言葉を練ることが苦にならぬ限りは、私は飽くことなく馬齢を重ねるつもりだ。まして癌奴に住み込まれたいま、気力こそが生きるエネルギーの素だと思うからだ。
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