犬が人間を咬んでもどうということはないが、その逆だとニュース種になるという。メディアとはそういうものじゃ。そこはそれ、売り上げ、視聴率アップ目当ての”商売”じゃからひとの耳目を惹くネタを優先するという、勢い新聞やテレビにはそういう習性が根付くということじゃな。商売はやや言葉が過ぎようが、公器だといいながら下世話な動機が見え隠れするのは確かじゃ。
「耳目を惹く」にしても、父親が頑是(がんぜ)ないわが子を殺したとか、邪(よこしま)な女が年金を詐取しようと何人かの高齢者に毒を盛ったなどの話しは聞くだにおぞましく、耳目は惹くにしても後味がなんとしても悪い。なのに社会面はそんなニュースで埋まり、テレビの画面にはそんな話しが脚色されて流れる。勘ぐれば、ひとがそんな話題にうんざりしながらも眺めることで部数が伸び視聴率が上がるという、言わばメディアの思い通りの筋書きが出来上がっている、と考えるのは下衆(げす)の勘繰りじゃろうか。
そう勘繰るにはわけがあるのじゃ。どうじゃろう、ひとが犬を咬んでニュースにならなくても、幼いこどもが才覚でお年寄りの災難を救ったとか、人知れずに積まれていた善行が、ひとの噂で知れ渡ったなどの話を新聞やテレビが取り上げたことがあったろうか?あったとしても、ここぞと演出して大いに伝える努力を新聞やテレビが払ったじゃろうか、ということじゃ。
わしの言いたいのはこうじゃ。メディアが仮にも公器を謳うなら、より寛容な、より情操豊かな社会を編み上げるためにこそ「耳目を惹く」ニュースを取り上げて報じるべきではなかろうか、ということじゃ。昨今のメディアの姿勢には、ひたすら似非(えせ)人権意識の醸成に励んだり、公私の弁(わきま)えを私(わたくし)に傾けすぎるあまり、善悪、美醜、優劣の平衡感覚(そもそもあるとすれば、の話じゃが)が乱れきっていると思えてならぬ。特に目に余るのは、テレビのいわゆるコメンテイター族の浅薄さであり、まともな日本語も操れぬ芸能人や似非評論家を雇うメディアの非常識じゃ。かくしてテレビのニュース番組や新聞の社会面は暗いニュースに満たされ、心温まる話しなどは影すらもない。
わしはさらに問いたい。そもそも巷から善行は消えたのじゃろうか、どこかで、だれか豊かな心の持ち主が、何でもいい、何か胸詰まるような美しい行いをしてはいないじゃろうか?善き行いは失せたのじゃろうか、あっても話題にもならぬほどに、ひとの心が荒(すさ)んでしまったのじゃろうか?
いや、わしはそうは思わん。日本人は「情(なさけ)」の民族、情はわれわれの文化の通奏低音じゃ。子殺しは病んだ社会の悪しき副産物、年寄りたちを騙殺する女も埒外な巷の異物じゃ。メディアは、それと知りつつ、公器として真実を報じる義務があると嘯(うそぶ)いて「異物」を報じてはいないじゃろうか、等しく真実な隠れた善行を伝えていないのじゃなかろうか。
メディアよ、心ある若きジャーナリストを巷に撒け。彼ら、彼女らの純朴な目で胸詰まる美談を探させ、いまは殺伐とした社会面に、いかにも猟奇味漂うテレビ画面に、一つ二つなりとも清涼剤を、いや 解毒剤を注ぎ込んで下され。
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