今年は秋が足早い。味わおうにも秋がない。秋嵐の爪痕だけが痛々しく、雨あめ雨では紅葉を狩る思いも萎える。晴れ間を縫って、わが庵では年ながらの畑仕事を二日がかりで済ませ、やれやれの一息。年ながらの仕事とは玉葱の植え込みで、この数年、友びとたちの評判に背中を押されて盛大に栽培しているのだ。わが庵では、さまざまな作物のなかで玉葱には思い入れがあり、これがあれこれと食卓を賑わしている。フランス料理がこれを重宝に使うわけが至極納得できる。
その玉葱を500株余、ことしは早生と晩早生を取り合わせて植え込んだ。玉蒟蒻(こんにゃく)の籤(ひご)ほどのか細い苗を一本ずつ丁寧に植え込む。15センチ間隔、畝間25センチほど、大工の墨尺の要領よろしく紐を張って、それに沿って植え込む。妻を巻き込んでの植え込み作業は、ほどほどに手間暇の掛かるものだ。『こんなひ弱な苗が、あんな立派な玉になるなんて嘘のようだ』、『それを思えば、張り合いのある仕事だ….』などの戯れ言を交わしながら、しみじみ思う:土のポテンシャルな生命力を吸い上げる植物たちの活性。
玉葱たちは霜を被(かぶ)り、雪の重みに耐えて冬を越す。真冬、雪が一面に積もり、白また白の地面が晴れ間にちらと『緑の穂先』を見せる。健気に育つ若い玉葱たちだ。そんな景色は看取れるほどに美しい。か細い苗がそれまでに育ち上がるプロセスは、人間どもには到底窺い知れぬ世界の話しだ。馬齢を重ねると、若い頃に迂闊にも見過ごしてきた『自然の妙』が見えてくる。窺い知れぬ世界だが、一心に想像を逞しゅうすればやや見える。仄かに、淡々と自然が機能している様(さま)が幽かに見えるような気がする。
土に差し込まれたままで、げんなりと幼い葉を横たえている玉葱の苗たち。彼らが首をもたげ、ようやく立ち上がるのはまだ旬日先のことだ。一本残らず立ち上がれ、と気合いを入れる思いで夕暮れの散水を済ませる。正月用の小松菜や菠薐(ほうれん)草もしっかり芽吹いている。あとはハヤトウリのが熟れ出すのを待つばかりだ。
玉葱を植え込んで、どうやら紅葉を狩る気分が沸いてきた。物見遊山がご馳走と、いずれ妻がそんな話しを持ちかけてくる予感がする。
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