秋日和の一日、兼ねてから目論んでいた「運慶展」を人混みを避けて鑑賞しようと、週日を選んで上野へ出向いた。ところが、案に相違して切符売り場ですでに長蛇の列に巻き込まれた。流石、二十数点の運慶像を一堂に集めた特別展だけのことはある。
入っては見たら、入館まで30分の待ちだという。ならば潮の引くのを待とうか、と覗いた喫茶までもがなんと80分待たされるという。やむなく、構内某ホテルの出店で、これも40分の待ち時間を忍んで軽食を済ませた。これは大変な混雑を見込まねばなるまい、と私の足回りを懸念して妻が一計を案じる。その経緯は余談で語らせていただく。
入館して順路に沿って展示室に入って、脚が竦(すく)んだ。人の海である。展示物はいずこか、人のうねりを泳ぎ渡るように展示物を追う。まず父康慶、運慶、子の湛慶らの作品が並ぶ。解説文を読む暇はなく、やがて運慶の作品群のまえに釘付けになる。
大仏師、運慶。この仏師の芸術性はとうに承知と思っていたが、今日、私は自分のちゃちな知識が微塵に砕かれるのを実感した。息をのむ写実性と超絶の彫技が冴えわたって、二十数体の作品のすべてが生きているが如く、あるいは眉間の皺から、あるいは伏せる瞼から、生命感が惻々(そくそく)と滲み出ている。童子群の漲(みなぎ)る生命感、無著世親兄弟像の枯淡の境地、ほかの諸像群の形相が発する圧倒的な実在感を前に、私は息を呑んだ。
至極浅薄な仏像鑑賞眼しか持ち合わさぬ私にして、ここに見る運慶の満ち溢れるまでの写実の粋にひたすら酔い痴れた。私は仏像という『器』のみに縛られた運慶が哀れにすら思えた。造形の枠が取っ払われて、広く世俗界に及ぶ象形に彼の技が及んでいたなら、ミケランジェロ何ほどのことやある、世界を唸らせる仏師ならぬ彫刻家運慶の孤高の美術が生まれていたに違いない。
国立博物館には何度となく来ているが、このたびの『運慶展』は出色だった。興福寺中金堂の再建を記念する企画だ。運慶作品四十数点のうち二十二点を集めた希有な催しで、抹香臭い年頃になった私には目の薬を越えて命を洗う経験だった。
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