思い立つ、ということがよくあるが、今日の小布施行きなどはそのいい例だ。
秋だな、栗が採れる時期だ、栗なら小布施だろう、小布施は信州、信州といえば蕎麦、もう新蕎麦だ、栗と蕎麦か、それなら…。
快晴の秋日和を追い風に、今朝、東松山から関越道を一路西へ、連れだって小布施を目指した。思い立ってのことだから、ことさらの心積もりもない。何年か前に手繰った蕎麦が美味かったこと、それが栗の里小布施だったこと、頃は良し、秋日和を「あの時の満足感を..」というだけのことだ。
何年か振りの小布施は、見違えるように垢抜けていた。周辺を栗畑に囲まれる風情は「栗の里」の面目躍如、中町の辺り、整頓された道筋は花々が粋を添え、「栗の里」を演出する趣きがあちこちに溢れている。週日とは思えぬ活気が感じられる。町おこしというが、わたしはこの町にその現物を見た。
老舗の食事処をあえて避けて、何気ない蕎麦屋ののれんを潜った。十割が生憎切れたと謝られて、それではと頼んだ二八が滅法美味く、わたしは大盛りを妻は並みを見る間に平らげた。添えて頼んだ天麩羅を取り分けながら愚妻曰く「わたしも大盛りにしておけばよかった…」。
話しが跳ぶが、思い立った動機のひとつに、じつはスラックラインがあった。綱渡りをスポーツ化したもので、なんと世界選手権大会がこの週末に小布施で催されるという。昨日、その練習現場をテレビで垣間見ていた妻が、どうやらこれを栗と蕎麦に絡めていたらしい。
ならばと車を走らせた。スラックラインの練習場は、真言宗豊山派の名刹浄光寺の傍らにあった。地元の愛好者がたむろする中、妻は臆する気配もなく頼み込んで初心者のラインを借りる。なんと、実体験に及ぶではないか。杖頼りのわたしはひたすら傍観。なんとか一歩でもと試して、思うようにならなかった彼女曰く、「子供たちのようにはいかないわ!」。
話しを戻そう。蕎麦のエピソードに余談があるからだ。
旅の疲れを癒すという、常ながらの妻の道理を通して、最寄りの温泉に一刻を過ごし、さて帰途につかんとするや、妻が蕎麦を手繰り直したいという。「大盛りにしておけばよかった」が後を引いていたらしい。
ならば、と急いで車を回したが小布施の町は見事に灯りを落としていた。まだ六時過ぎたばかり、やはりこの町は栗の里だった。
帰途の高速でサービスエリアの食堂により、なんとか蕎麦にありついた妻がぽつり、「これ、いつもの蕎麦と変わらない..」
秋日和の小布施行きはこうして終わった。蕎麦ありスラックラインあり、思いつきにしては上出来な旅だった。
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