握手(20)

いずれも身罷(みまか)られすでにこの世におられない、あの日の恩師ご夫妻の姿を、いまわたしは瞑目して一心に思い出そうとしている…..。杖をつかれた先生に寄り添われる夫人、セピアのスチール写真さながらのイメージが、やがて幽かに動き始める。にこやかな表情、こっちだこっちだと手を振られる様子….、わたしはあの時、上陸以来の得も云われる緊張感がはじめて緩み、膝が笑ったのをいまでも覚えている。

△ △ △ △ △

いまは平成も29年、すでに昭和は遠い。昭和30年といっても実感も遠かろう。日産ブルーバードの前身ダットサンの登場で明け、トヨタのトヨペット・マスターラインが売り出されて暮れたその年の6月、横浜を後にシアトルへ、グレイハウンドでオレゴン街道を東へ、7月ボイシに着いている。もちろん、ダットサンもトヨペットも眼中にはないわたしだった。

さて、あの日のセピア写真が徐々に色づき、やがて動き始める……。

バスはディポの改札口近くに横付けした。バスを降り、横腹から吐き出された黄色いスーツケースを右手に、二三人の後から構内へ。田舎町なのに結構な数の人がいる。目を凝らして見回す。おそらくわたしの目は血走っていたに違いない、やたらに目が疲れる。やがて、左手にご夫妻らしき二人連れを見つけた。らしき、というのは他にもカップルはいたからで、見間違えてはまずいという懸念から咄嗟に足どりが鈍っただけのことだ。

見れば人品骨柄、振る舞いから、まず間違いないと踏んだわたしは、数メートルの距離を一気にお二人に近付いた。杖を突かれた長身でやや銀が混じる濃茶髪の紳士と付き添われる中年の婦人、紛れもなく恩師ご夫妻だ。お二人は、異口同音に二言三言、笑顔でわたしに問いかけた。わたしは、ここぞと右手のスーツケースを下に置き、なにはともあれ恩師に握手を求めた。恩師はわたしの手を両手で受けて、「……..」とひと言。ご夫人には手を出さずに、深々と礼をした。端で見れば、なにやら奇態な儀式に見えたかも知れない。

生まれて初めての握手だった。

握手が礼儀の作法であり、おさおさ怠りなかるべし、との意識過剰が禍して舌が痙(つ)り、咄嗟に添える挨拶の言葉を忘れた。無言の握手はさぞ異常に見えたに違いない。後日、“You were so nervous stiff that day, Yasu!”と一つ話にされたのだから。しかし諸君、安易に嘲笑し給うなかれ。あの時の無言の握手は、いまにして思えば、わたしにはやるせない「少国民」の残像に別れを告げる儀式だったのだから。

時計を十年ほど戻して欲しい。十代のわたしはアメリカ敵視から疑問視、やがて好奇心から注視の感覚まで、アメリカへの立ち位置が劇的に変動した。「負けるはずがない日本を負かした國」への意識の振幅は、同時代を生きていない人たちにはほぼ理解不能だろう。「何でも見てやろう」の“ベ平連”の小田実のように、同時代にアメリカにいながらアメリカ観はペンデュラム(振り子)の反対側に振れたものもいる。わたしはひたすら実体験の旅をして、自分のアメリカ観の理路を付けた。

その旅路の入り口、双六なら振り出しが地理的にはシアトルであり、文化的にはグレイハウンドという途轍もないバス路線であり、有機的というか人間的にはボイシのバス・ディポでの恩師夫妻との初対面であり、さらに生々しくは恩師との握手だった。日本が敗れた敵国の人の手をじかに握ったことは、礼儀作法にせよ何にせよ、わたしにとっては大事件だった。過敏だったかつての少国民には、将に驚天動地の出来事だったのだ。

そして、あの日に戻る。

わたしは無我夢中の昂揚状態のまま、恩師の運転する緑のStudebakerの後部座席にスーツケースを抱えて乗り込んだ。握手が初めてならアメリカ車も初めてのこと、楽に横になれようほどに広々とした座席。「こりゃ、日本は負けるわ」と気後れを感じた一瞬だった。ご自宅までの数刻、わたしはようように人心地を取り戻すのだった。

思えば、あの日を境にわたしの稀代の苦学が始まった。追々に物語る出来事は一言隻句のまやかしもない。フルブライトには縁のない一人の若者が、体のいいアメリカ病に冒されて辿った苦学の足どりは、満ち足りた現代には虚構にすら見えるだろう。

StudebakerはCapitol Blvd.を東へ、やがて高台のMesa Vistaという閑静な一角のこじんまりした家に着く。Mesa Vistaはかつて夢中に綴った航空便に書き慣れた住所だった。さまざま紆余曲折が思い出されて、迂闊にも涙腺を抑えきれず、玄関脇の表札の文字 Eugene B. Chaffee がぼやけて読めなかった。

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