氷川丸からグレイハウンドへ(18)

下船前後の錯綜はまったく覚えていない。船中お世話になった平野さんへの挨拶はしただろうか。したに違いないのだし平野さんのひと言もあったろうに、みな忘れてしまった。

二十日ばかりの氷川丸のキャビン生活は、今は遠い思い出だ。無くなった万年筆の恨みだけは、半世紀余の今も鮮烈に残っているのだから、人の怨念とは曰く言い難いもの。以て知るべしだ。

下船して氷川丸を見上げる。この船で横浜からシアトルまで太平洋を渡ってきたのか、との実感がひしと迫った。感傷を振り切って、下船した船客の並びに混じり込んだ。

薄い青の背広に履き慣れない革靴に足を取られ、重い黄色いスーツケースを左右に持ち替えながら、わたしは入国手続きの建物に続く通路を進んだ。なんとも薄暗い、大勢の足音が反響するトンネルの様な道だった。

入国管理の手続きはもっぱら書類の作業で、気になっていた英語の応答に悩むこともなくゲートを潜り、わたしは名実ともにアメリカの地に立ったのである。

グレイハウンドのディーポ
行き先はアイダホ州のボイシという町だ。この州の州都で、日本ではBoiseをボイスと呼んで大使館のマイヤーさんに正された。「ボイシともボイジとも言うらしいです。でもわたしはボイシと聞き慣れていますから…」と教えてくれた。フランス語のboisが語源で木のことだ、とも。後にボイシが通り名だと分かった。

ボイシへはグレイハウンドという長距離バスで行くことに予約が組まれていた。重い黄色のスーツケースを持ち替え持ち替え、わたしは看板や標識にグレイハウンドの言葉を探した。雑踏の中、気ばかり焦って見つからない。流れているアナウンスは、日本でも駅などで聞く例の独特な調子でなにやら知らせている。これが何をいっているのか、皆目分からない。ゆったりとした気分で聞けば分かったのだろうが、下船、入国管理のゲート、そしてバスだ。ほぼ氣が転倒しているわたしには、すべてが呪文の様に聞こえたのである。

ままよ、誰かに尋ねるしかない。

わたしが最初に使った英語は、その時のバス発着場を尋ねる言葉だ。今にして思えば、記念碑的なひと言だったのだ。

“Where is the Greyhound Bus station, please?”

実はそう言ったかどうか記憶にはなく、ただ誰だったかお年寄りに尋ねたことは覚えている。早口では困る、お年寄りならゆっくり話してくれるだろうという、切ない智恵である。お年寄りの男性は指を差しながらある方向を示して、

”…………………,see?”

といって、分かっただろうという仕草をした。あの時の「会話」は終生忘れられない。こちらの言うことは通じたらしいが、返ってきたひと言がsee?以外にまったく分からない。お年寄りの声は聞こえても言葉になって繋がってこないのだ。早口は困るから、と選んだお年寄りだったが、いま思えば年齢的な不鮮明さが禍(わざわい)したのだ。

よく分かった、という風情で、わたしはそのお年寄りに精一杯の誠意を込めて礼を述べ、重ねて問いただすことをしなかった。内心、言い知れぬ不安感に戦(おのの)いていたのだ。バスの発着場だけでも分かれば御の字だ、とそう思ったのである。お年寄りのなにやらのひと言を背に、わたしは教えて貰った方向へ向かった。

ボイシ行きのバス
バスの発券所などはどこでも同じだ。須田さんが骨を折ってくれた予約は、氷川丸でシアトル、バスでボイシへと整っていた。ボイシまでのバス切符を改めて買うことはなかった。予約情報にすべて載っているからと、切符類が全部はいっているフォルダーを窓口の向こうの出札係に出してしまったことから「事件」が起きたのだ。

事件といっても、何か盗まれたとかのそれではない。出札係は窓越しに切符類のフォルダーを返しながら、隣の掛かりのスタッフにわたしの黄色いスーツケースを引き取るように指示し、これですべてOKという意味のジェスチャでにっこり笑った。

黄色のスーツケースが引き取られて、どこやらへ運ばれていった時、わたしは一抹の不安を覚えた。発着所には10台近いバスがひしめいていた。「ボイシ行きのバスは?」わたしは咄嗟にバスの行き先表示をチェックし始めた。

ない。ボイシ行きと書いたバスがない。えらいことになった。誰かに聞けばいい、とはすぐに思ったのだが、さっきのお年寄りとの「会話」のあとだ。スーツケースとはぐれたわたしは、一抹ならぬ総毛立つ不安に襲われたのだ。

事件である。

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