諸賢は「鐘の鳴る丘」をご存知かな。
このHPに立ち込まれる方々の八割方が、何のことかお分かりではなかろうと思ふ。ご存知なら、若くても75歳は下るまいと思ふし、そのような高齢の方々がここに立ち込んでおられるとは、なかなか思ひ難いからじゃ。「鐘の鳴る丘」と聲を出して讀むだけで、わしは目の前が霞むのじゃ。懷かしい音じゃ。
懷かしいとて、それを知らぬご仁には迷惑じゃろうが、今日は迷惑と知りつつ想ひ出話をさせていただくつもりじゃ。
なに、きっかけは YouTube で「鐘の鳴る丘」の映畫版を観たからじゃ。元の話は菊田一夫の書き下ろしで、古関裕而が音樂をつけたラジヲ番組じゃった。大人たちには「君の名は」を書いて一齊を風靡したこの戲曲作家が子供のために書いたこの作品は、当時、世の子供たちの、いや、子供たちばかりか大人たちも巻き込んだ大評判を呼び、なんと、いっとき90%という視聴率を記録したのじゃ。
戰爭はさまざまな傷跡を残したのじゃが、生活苦のなか、東京の街は「浮浪兒」で溢れた。父母を亡くし兄弟を見失った子供たちが、自然発生的に街をさ迷ひ、かっぱらいをして飢ゑを凌いだのじゃ。物語は、その浮浪兒たちを救ひ、山の施設に集めて更生させるまでの喜怒哀楽を、一人の青年の努力を通して描いた胸詰まる話で、わしはラジヲに縋って聞いた幼い日々を、昨日のことのように思ひ出されるのじゃ。
わしは思ふのじゃ。いま日本は、瀬戸際の苦しみを知らぬ人間で溢れておる。戰爭がどうのと言う前に、どん底の苦しさの何たるかを知らぬ日本人、とくに甘やかされ尽くした日本の子供たちに、「鐘の鳴る丘」を観てもらいたいのじゃ。ひと昔前の子供たちがどんな社会に生きていたのか、どんな生活をして、どうして生き抜いたのか、いらぬ説教を垂れるよりも、「鐘の鳴る丘」を觀て、その畫面から滲みでる「なにか」から、學び取ってもらいたいのじゃ。
テレビもビデオもなかったころ、ラジヲと紙芝居だけが楽しみだったころ、わしたちはラジヲを知恵の泉として育ったものじゃ。「鐘の鳴る丘」の時間になると、子供たちはラジヲの前に群れた。そして、隆太の勇氣に拍手し、脚を痛めた修吉に涙し、あのクロが「とんがり帽子」を教えろとせがむ姿に笑い泣きしたのじゃった。
冷めて思へば、「鐘の鳴る丘」は CIE (Civil Information and Educational Section) を介しての日本懐柔政策のひと枠だったには違いないのじゃが、あの浮浪兒たちはたしかに現実にいたのじゃ。そして、物語のように苦しい時代を生き抜いたことは慥かなのじゃ。わしは、いまの世の人々に、素直にその時代の現実に向き合い、この國の誰かが、その時代を生き抜いたからこそ、いまの日本があるのだということを、難しいことは言はぬ、この映畫を鑑賞しながら想ひを深めてほしいと、つくづく思ふのじゃ。
「鐘の鳴る丘」は三作まで作られた。第四作「カラスの巻」は何かの都合で作られず幻の作品になったと聞いておる。今youtubeでは第二篇までしか観られぬものの、第三篇もそのうちアップされるだろう。より多くの子供たちに観せてやってくだされ。
第一篇 隆太の巻
第二篇 修吉の巻
第三篇 クロの巻
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