幼いころ、わしは紙飛行機を飛ばして愉しんだものじゃ。一枚の紙から織り出すやつもあれば、ボール紙を切り出して作るやつもあった。わしは、このボール紙を細工する飛行機が得意で、いっとき熱中したものじゃ。ご時世だから、零戰やら隼やらと名付けては夢中になっておった。懐かしい想い出じゃ。
熱中するほどじゃから、飛行機作りには幼いながら一家言あっての。主翼の位置、そり具合など、滅法凝ったものじゃ。中でも尾翼は大きさと形で飛行機の安定度がまったく違うことを、理屈抜きに体験から知っておった。
がらっと話を変えよう。紙飛行機の話は、じつはその「まくら」のつもりなのじゃ。巷を騒がせている森友學園のことじゃが、わしは大方の人々とは違う、やや捻った思いでこの話題を追っておる。表題から違和感を覚えられたら、それはその捻り具合のせいかも知れぬ。
事態を鳥瞰して、わしはこう思うのじゃ。籠池という御仁は、ある想いに駆られて直情径行、ひたすら一点を凝視して猪突、氣づいてみれば深い「政治」という名の藪に迷い込み、「思惑」という名の罠にはまり手足の自由をうばわれておられる。この御仁には、素直な傳統主義、古風な言い方なら大和心が息づいておる、とわしには見える。この御仁は、その想いから直情的に幼兒教育を思い立ち、學園設立に走り、その道筋にある「問題」を捌き損ねて藪に迷い込んだかに思えるのじゃ。
悦ばしきことに、いま日本は滔々たる保守主義の流れに棹差して、本来あるべき姿に回帰している。戰後、日本は多くの國家的資産を失った。そのひとつに、教育の退廃がある。人の道を教える教育にそれが著しい。教育は飛行機の尾翼じゃ。社会の安寧と平衡を維持する要なのじゃ。それが乱れに乱れて、親子が殺め合うまでの乱脈が罷り通る世になった。それがよかろう筈がないのじゃ。籠池氏は猪突して罠に墜ちている。墜ちてはいるが、この御仁の発想される學園は、この保守主義の流れに敢えて棹差す卓抜な試みじゃ。
さて、この罠の實態はなんじゃ。土地譲渡や書類作成の杜撰さ、金繰りの齟齬などが目立つと見えて、じつはそれらは問題の本質ではないのじゃ。なにを隠そう、この罠を仕組んだのは保守主義への流れに危機感を募らせる輩たちだ。さらに、罠に墜ちる籠池氏を、政治的思惑から看過する輩もいる。後者には、この御仁が敬慕して止まない人物もおり兼ねてから保守主義を標榜する某重要閣僚もいる。
いかがじゃろうか、この事態の實相をご覧いただけようか。まさに、哀れ籠池じゃ。この御仁はひたすら直情径行のひと、言動の軽薄さ故に一点をのみ見つめて足元を掬われたのじゃ。親が親ならず、子が子ならぬ世は尋常ではないのじゃ。教育勅語は逐語ならずともよい。その教えるところこそが、まさに深遠なのじゃ。資力と体力あらば、この學園、わしこそが立ち上げて見せたいほどじゃ。
梅の花に惹かれて植え付けた馬鈴薯たち、もう程なく芽をを出すじゃろう。
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