知恵袋といえば、わしがインターネットにハマるきっかけになったサイトでな。わしが英語の知恵をな、知恵を小分けにしておった場所じゃ。そこでの問答をネタにここで「英語講釈」をしておるんじゃが、今日はそれとは違う知恵袋の話しをしたいんじゃが、聞いていただけようか。いや、これを同じ袋の名前で語るのは、どこかチト違うんじゃが、思ひ付く格好な言葉がないから、知恵袋ということでお話しよう。
近頃膝が痛い。痛いというよりは、膝の辺りがコチッと固まった感じでな、素直に折れてくれんのじゃ。それで流石のわしの動きが鈍くなった。つまり、体がいうことを聞かなくなった、ということじゃ。膝ばかりじゃない、ものを背負っても昔ほどのアジリティーはなくなった。
だが、じゃ。わしの思考力は歳とともに深まっておると實感しておる。歳の功の實態を感じておるのじゃ。
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さて、そこじゃ。わしは密かにこう思ふておる。人はみな一張の知恵袋を背負って生まれてくる。この袋、だれのものもパンパンに膨れておる。だれの知恵袋も、じゃ。膨れているからには、何かが入っておるはずじゃ。そう、入っておる。中身は「活力」じゃ。この活力の組成はなにか。活力の組成は体力と知力じゃ。そして、じゃ。そして、当初から知恵袋に詰まっている活力は質量が一定なのじゃ。体力が減れば知力が増える。歳を取るとはそういうことじゃ。
さて、生まれたばかりの赤子の知恵袋には知力はゼロに近い。ほぼ体力だけがぎっしり詰まっておる。日一日と成長するために、体力はさくさく消費され、赤子はすくすく育つ。赤子はしゃぶることを覚え、無邪気に笑むことを覚える。その間、知恵袋の体力は減り知力が増える。が、活力の總和は変わらない。
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わしは、二十歳のころにこの「屁理屈」に気づいた。屁理屈じゃろうと思いながらも、わしは人の知恵のつき具合は体力に反比例するという實感を、歳を追うごとに感じるようになったのじゃ。それで若気の至りも説明がつく。年寄りの冷や水も分かる。「若もの笑うな、來た道じゃ。年寄り笑うな行く道じゃ」というではないか。じゃが、知恵の足りぬ若者を責めるな、は分かるが、老いて知恵の分が増えておろうに、足腰の衰えを忘れての「冷水」は褒められまい。
かくいうわしはどうか、とお訊ねがあろうかも知れぬ。ご案じなさるな、わしの知恵袋はいまだ活力滿杯じゃ。袋は張り裂けんばかりじゃ。ただ、内容物の組成はめっきり傾いてきた。歩みの鈍な牛の背に跨がって自ら鞭を当てるが如きじゃ。動きは鈍くなった。鈍さを感じる知覚神経が逆に年毎に鋭くなる。
いまわしは、その研ぎ込んだ刄に脅されて日々を送っている。思うごとに筆が走る。体力の衰えに気づきながら、沸々たる思ひの手綱を引き兼ねておる。わが知恵袋は萎むことを知らず、知力は至らぬ体力を嘲笑ふのじゃ。
梅の便りが常より早い。自然に何やらリズムの乱れがあるような。
ご機嫌よう。
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