別れのテープ(14)

 一九五五年六月のよく晴れた日、わたしは鹿島立った。日にちは覚えていない。家族、親戚、二人の友人野本と平が見送ってくれた。横浜埠頭での記憶は、いまは薄れて文字にすべくもないが、瞼に浮かぶ映像の切れ端があの日を思い出す縁(よすが)になる。

母方の祖父啓次郎が、なんとも落ち着かぬ風情で立ちすくんでいた。背中を丸めた日頃の姿は変わらず、両手を後ろに組んでわたしをしげしげと見上げ、物言いたげで言葉にならない様子を見透して、わたしは孫の外国行きを気遣う祖父の無言の心労を感じ取った。父母もこの期に及んでむしろ言葉少なく、気丈な母はあたかもその場を仕切る風情だったが、わたしの渡米に反対だった父の様子には、やり場のなさが如実だった。ありきたりの別離の言葉が飛び交い、出航の時刻が刻々と迫った。

野本たちは羨望と好奇心の入り交じった言葉遣いで、わたしを送ってくれた。平は沖縄の人で、小学校いや国民学校での疎開仲間だった。英語っぽい話がきっかけで触れ合った。名を等といい姓名は平等、「たいらひとし」と読むのが面白くて、何かと話題になった男だ。「俺も肖(あやか)りたい」と、平はわたしの渡米をつとに羨んだ。あいつのことだ、その後似たような企みをしたかも知れないが、無沙汰で知る由もない。

船が埠頭を離れるまでの計りようのない時間の経過は、紛うことなく「船の別れ」の異常心理そのものだ。挨拶の言葉も尽きて、妙な所在無さが漂う。早く過ぎてほしい、いつまでも続いてほしい、そんな時間が坦々と流れていた。船の別れは辛いという。わたしには、辛さよりはやり切れなさが実感だった。母などは身を切られるようだった、と後になって言っていたものだ。

やがて、乗船を促されて見送りの群れを離れる。静から動へ、所在無さは何処へやら、改めて皆と別れの言葉を投げ合いながら、わたしはタラップを登った。出帆前の船のメカニックな音に人々の群れのざわめきが騒然と重なって、異様な雰囲気が辺りを満たしていた。舷側から見下せば人の波また波、一瞬見送りの姿を見失った。啓次郎爺さんの姿を見つけ、その周囲に見送りの連中を確認して安堵した。用意していたテープを二個、狙いすまして投げ下ろした。流行り歌でいう「別れのテープ」だ。糸電話ではないが、なんとも言えぬ繋がった感が今更に記憶に蘇る。なかなか実感できない経験である。

帰朝した後のこと、ある日の昼下がり縁先で母がこう言った。「船の上でお前が隣の外人さんと何か話しているのを見て、あああもう英語でしゃべっているんだな、って安心したもんだよ」。なんとも無邪気ながら母性の横溢した言葉だ。現地からは切手も惜しんで便りも一通だけ、思えば母には気苦労をかけた。

銅鑼が鳴った。出航だ。タラップが外され錨が上がった。船はエンジンを逆噴射して後進、徐々に埠頭を離れる。やがてテープは切れ、推進力が上がるにつれて見送りの群れは見る間に遠ざかってゆく。横浜港が水平線に消えるまで、わたしは舷側に縋って西を見つめていた。気丈を自負していたわたしは、その時、底知れぬ寂寥感を覚えて戸惑った。これではならぬ、なんの寂寥かと自らを戒めたのである。いよいよ、である。

わが氷川丸はしっかりと東に進路をとり、東京湾を出た。

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