恩師の温情(11)

ここで、以前に触れた母校への「就職」について改めてお話ししておきたい。金作りもそうだが、アメリカ、アメリカで先走っていたわたしにとって、あれは思えば熱気の緩衝地帯だったのように思える。思い出すままに、時間の流れを追ってみよう。

朗報
さて、まずは金づくりだと座り直したちょうどその矢先、ある朗報が舞い込んだのだ。わたしの在学中、母校の加納中学で教頭をされておられた恩師の臼田先生から、ある日、電話をもらった。なんのことかと早速に出向いたものだ。

爾後(じご)の無沙汰も済まぬ間に、先生曰く「どうかね、中学で教えないか?」。教える?高校を出たばかりの身で中学を教えられるものかと訝ったのだが、臼田先生は多くは仰らず、「金策にはよかろうと思うが、どうだ?」と畳み掛けられる。どうやらこちらの事情を見通すかのような話に、ほかに金策の目途もなくおよそ就職などにはまったく思いがいっていなかったわたしはこの話に乗らせてもらうことにした。
恩師とはありがたいもので、なにやら千里を走るとか、どこでどう聞かれたか、先生はわたしのアメリカ狂に気づいてたおられた。悪事でなくてよかった、今更に思う。

話を聞いてみると、講師の資格を取ればいいという。それにはこうこうと臼田先生は手際よく手はずを整えてくれた。県庁へ出向いて坦々と手続きを踏んで、なんと英語教師の講師という資格を手にした。思えばわたしは強運の持ち主だ。チェイフィー博士といい須田さんといい、わたしにはここまで幸運としか思えない人との出会いがあった。あの時の臼田先生からの誘い、 「これはアメリカ行きは実現するぞ、そうなる運命なんだ」と、わたしは勝手に思い込んだのである。

それも無理ないところだ。家は貧乏だ。親には一切面倒はかけられない。父はわたしのアメリカ行きにはのっけから反対で、一時は大和銀行の就職試験を強いられるほどの見えない圧力を感じていた。たまたま母方の叔父が政治運動にのめり込んで、相当赤っぽい状況だったことが面接段階で露見して、就職が実現しなかったのだ。わたしはあくまで強運だったのである。

こうして、わたしは母校で教鞭をとることになった。主客転倒まではいかないが、黒板に向かうか背を向けるかの違いを、わたしはしみじみと実体験することになる。また、得意は科目とはいえ、人様に「教える」などは小癪なことだと、内心密かに思ったくらいだ。村社会のことだから、周囲には頭の高い若造に映ったかも知れない。だが、わたしにして見れば、教壇生活は大事の前の「羽繕い」のひと時ぐらいのもので、勢い振る舞いが余るのは仕方のないことだったのだ。

アリスと坊ちゃん
たしかに外した羽目は何枚あったことか。なんかの弾みで、英語のはずの授業に「田園」のレコードを持ち込んで、ベートーベンを聴く、発音の練習にフォスターを合唱させる、などなど、枚挙に遑がない。学芸会となれば、三年生を使って、漱石の「坊ちゃん」の例のバッタ事件を勝手に訳し、文字通りバタバタ劇に仕上げて「上演」、まともに話の筋も知らぬ「不思議な国のアリス」を一幕物の独創的な英語劇に仕立て、出たとこ勝負の旋律をBGMまがいに舞台裏でギターを即興演奏して興を添えるなど、思えば乱暴な企画を乱発した。

英語の授業なるものも、わたしの場合は指導要領抜きの独創的なもので、それが面白いと県から視学がきてひとクラス観察して帰ったのを覚えている。
 それもこれも、ただただアメリカ指向で凝り固まっていたわたしの気持ちが、計画が実現するまでの時間を持て余しての所業だった。思えば、とんだ緩衝地帯だった。迷惑だったのは生徒たちだったろう。「坊ちゃん」の自作シナリオはもうない。高校を出たばかりの頭で考えた英語劇だ。聞く耳が聞けば無残な代物だったろう。それでも、わたしはあの頃の自分の一本気な思いを懐かしく思い出すのだ。「不思議な国のアリス」で進行中の劇を舞台裏でギターを自演し支えた心意気はわれながら涙ぐましい。

本音を言えば教師時代はわたしには息苦しい時間の集積だった。標的を目の前にして引き金が引けない獵師の心境か、英語を教える暇があれば現地で通用する英語の鍛錬こそが焦眉の急だろうが、と自分を責めた。流れる時間をこちこちと感じる毎日だった。十万円の資金作り、そのためだと割り切ろうとしながら、曲がりなりの教師魂がそれはならぬと邪魔立てをする。限りのない葛藤だった。

ドル申請と査証
こうして二年が過ぎた。宿直をすべて引き受け、分限の息子二人ほどを教え夜食代を稼いで貯めまくった金が、ほぼ目的額に達したのだ。二年度が終わった三月、わたしは母校を辞し上京した。東京は目まぐるしかった。人や車でじゃない、やらねばならぬことの多さに目がくらんだのである。須田さんに会った。彼は金策が成ったことをとても喜んでくれた。費用は三等で二百八十五ドル、旅券と査証が取れ次第ブッキングできるという。そしてまず大蔵省で外貨を割り当ててもらうのが最初の仕事だとわたしの背中を押した。

そうだった。やっかいな大蔵省が残っている。
終戦からまだ十年と経っていない頃のことだ。日本経済の実態はアメリカ丸抱え、朝鮮動乱の「恵み」で息を継いでいる状態だった。ドルは産業優先で振り分けられ学術、芸能は対象分野としてほど遠いものだった。アメリカ留学はもっぱらフルブライト系が中心で、わたしのような高卒の大学狙いなど大蔵省としてはドルの無駄遣い以外の何物でなかったのである。須田さんのいう通りだ。動機や事情がどうであれ、わたしのようなある時払いの催促なしのドル申請には狭き門だったのだ。

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