鬼の霍亂というのを、ご存知か?混みいった漢字じゃがな、これは「かくらん」と読むのじゃ。いまなら熱射病じゃな。頑健な鬼は熱射病など罹らぬ、という。元氣な奴が病むことを、そういうのじゃ。
わしは五臓六腑が頑健じゃて、病むことはごく稀だったのじゃが、寄る年波、このところふっと不調に氣づくのじゃ。嫌な言葉じゃが劣化というものか。それが結構應えるのじゃ。
来し方行く末、というが、わしは時間の流れを昨今常になく感じるのじゃ。同じ一時間が長さも違えば色も違う。時間が發する音が、そもそも違う。そうじゃな、違いをいうなら音で測るのが、一番正確じゃ。
昔は、といってもつい30年ほど前までは、時間は遠く貨物列車が刻むレールの音のようじゃった。そのまた30年前、わしが二十歳の頃は雲の帯を引きながら高度を飛ぶ飛行機、耳を澄ませばかすかに聞こえる氣がするエンジンの音、あんな感じじゃった。幼かった頃は、朝日が西に落ちるのを追う、そんな感じで時間が流れておった。音は樹々の葉ずれか鳥の聲、とても時間の出す音とは聞こえんじゃった。
それが、じゃ。今はまったく違う。今は、時間の流れにあたかも秒針が聞こえるほどの臨場感を覚えるのじゃ。昔から丸い顔の、時報を打つ時計を好むわしのことじゃ、コツコツには慣れ切って、氣にもせなんだが、いつかな、これがわしをせっつくのじゃ。焦りはせん、焦りはせんが、聞こえぬ筈の柱時計のコツコツがわしの背中をしきりに押すのじゃ。
時間が計量可能だと、わしは今ようやく思へるようになった。天から授かった時間を、すでに流れ去った分は歳月で量り去り、僅に残された分を秒針が刻む「音」で推し量るつもりだ。一刻は長く、また短い。秒針の餘韻が殷々と聞こえる。
梟の世迷いごとは、肌理の細かい戲言でいい。それでいいのだ。
ご機嫌よう。
島村様
さっそくのご返信をありがとうございます。
お初めてなのに名乗りもせずに、大変ご無礼を申し上げました。
西澤と申します。
奥様の恵子さんとは、中学、高校で同級でした。
望外なのは私のほうでございます。
コメント欄をお借りして、島村様に父への思いを受け止めていただきました。
本当になんとお礼を申せばいいのかわかりません。
思いを届ける場所があるというのは格別のものですね。
日頃も惠子さんとメールを交換しながら、本当にあたたかな、大きなお力をいただいております。
島村様、惠子さん、おふたりのユニットから生み出されるこのHP「梟の侘び住まい」は、
実に最強のものになると今から確信がされてなりません。。
これからも、折にふれこちらへお邪魔させていただきたいと存じます。
どうぞ、よろしくお願い申し上げます。
西澤様、
今日は心にしみる出来事がふたつありました。
ひとつは、李登輝友の会講演会兼忘年会で恵子ともども聴いた、ある日本名の台湾人の壮絶な生きざま、もうひとつは、私の「世迷い言」へのあなたからの切々としたコメントでした。
あなたの文才は、かねてから恵子から伺っておりが、こんな流れでお話ができようとは思いませんでした。
島村泰治です、初めまして。お父上を亡くされてからのご様子については、これも恵子からことあるごとに聞いております。他人には言い知れぬ心境であろうと推察します。
それこそ、時間の力に頼って忍ぶに如くはないか、と。ご愁傷さまでした。
そう、時が聞こえる感覚は歳月の余徳、じつは老いてこその余禄にさえ思えます。
あなたたちの年頃には、流石にまだいまの感覚での「音」を時間から聞こえることはなかった。
傘寿を経て、何か一つのことをしおわせても「まだ何かし残していないか」と、いわば秒針のコツコツに念を押されるのです。これも「年の功」でしょうか。
私は、むしろこの感覚を発条にして、仕事を捗らせている….。どうも生癖のようです。
恵子を支えに、クラウドソーシングでの書き物のほか、HPでもこれから思うことを書き残そうと意気込んでいます。
日本文化の伝播に、と、落語の英訳もすでに古典の名作を中心に進んでいます。
言葉に敏感なあなたのような人のご意見や示唆こそが、私にとって格好な肥やしになります。時間があるときに是非立ち寄ってください。
あなたの影響なのでしょう、恵子も近頃は雑文を書いて、人様に重宝されているようです。
さらにお近づきいただいて、何かと相談に乗ってやってください。
私の拙文が微なりともお役に立ったとすれば望外なことです。
今後とも言葉のお声をお聞かせください。
島村
島村様
奥様にご紹介いただきお邪魔しております。
一言お礼をと思い、筆を執らせていただきました。
「時間が聞こえる」。しんとした気持ちで拝読いたしました。
今年1月に在宅看護で93歳になる父を送りましたが、
父は最後に「これで最期になるような気がして仕方がない」と申しておりました。
残された時間がはっきり見えていたのです。
いつもと変わらない父の様子に、私は父の話を聞き流してしまいました。
その4日後に父は亡くなりました。
ずっと悔やんでも悔やみきれない思いでおりましたが、
島村様の書かれたものを拝読し、ようやく思いがほどけるような気がいたしております。
時間の流れに覚える秒針が聞こえるほどの臨場感。
1年前の今頃、父もそうであったかと思うことは、
胸が震えるような謝意、そしてようやく父の思いにそうことができたという、
父を背中から抱きしめるような、なんとも言えない安堵の感を覚えます。
書いていただかなかったらわかることではありませんでした。
本当にありがとうございます。
心からお礼を申し上げます。
これからも時々お邪魔させていただきたく存じます。
「アメリカ苦学記」「世迷言」、ともに一気に拝読させていただきました。
年輪を感じ圧倒されます。それがとても楽しいです。
続編を心待ちにいたしております。