わが浦高時代は、ひたすら英語に明け暮れた。三年という月日は、リアルタイムではほどほどに長いものだが、いま振り返れば一陣の風のごとく吹き過ぎた。アメリカ行きの夢ははるか遠く、学校は了えたがまさに五里霧中、わたしが一腰入れて道筋を付けんと身構えた、まさにその時、天恵が舞い降った。いまにして思えば、あれがわたしの運の分かれ目だった。
卒業数日後、母校、加納中学校の臼田教頭から連絡があった。お目にかかると、卒業を祝う言葉もそこそこに、臼田教頭はわしに母校で教えよ、と言われる。すぐにかと問えば、この四月からと。そのために講師の資格を取りに県庁へ急げといわれる。操られるように、わたしは県庁へ出向き、すでに話しが通っていたらしく、わたしは一連の手続きを終えて英語講師の免状を受け、臼井教頭に報告した。こうしてわたしは、アメリカ渡航のための費用づくりの目処が立ったのだった。臼田教頭はわたしの恩人だ。
あっという間の出来事だった。わたしは母校の教壇に立った。「得意」の英語を教えるのだ。なんということはない、そう思ったのが迂闊だった。得意なことと教えることとは同次元の話じゃない、と、教壇に立って初日でわたしは悟った。白紙状態の生徒の脳味噌に英語という異物を「漬け込む」作業は、わたしに己の知識の淺薄さを悟らせ、教えるどころか学ぶことの多かった極め付きの稀有の経験だった。
二年間の教師生活をわたしは徹底して英語漬けで過ごした。教壇での授業では物足りず、わたしは生徒を使って各学年一本、計三本の英語劇を脚本から演出まで、仕上げた。若かったわたしの大変なエネルギーだ。一年には「不思議の国のアリス」、二年には佐々木邦の「トム君サム君」、三年には漱石の「坊っちゃん」、どれも原作からつまみ食いのほぼ創作劇だ。
英語のエの字も知らぬ一年生の「アリス」はミニミュージカル。英語の歌を歌わせての荒唐無稽な舞台劇。それでも、英語らしい音があちこちに聞こえて、大向うの喝采を浴びたものだった。
わたしの英語熱は冷めることがなかった。二年生に出来のいいのが二人いたのを幸いに、わたしはスピーチを書かせ(もっとも推敲も施したが)競わせて、英語弁論大会へ連れて行った。惜しくも大魚は逃したが、善戦をしてくれものだ。
傍ら、ほかの教師の宿直を一手に引き受けて、まともな飯も食わずに資金を作った。こうして二年間の講師生活を終えて、わたしの手には285 ドル相当の資金ができた。1ドル360円のころの285ドル、これは船賃すれすれの金額だった。
加納中学校時代は、わたしの英語人生の、スポーツならアップの時期だった。心構えと「金」力づくりが、生徒という生き物を出汁にしてできたのだった。いまは亡き臼田教頭に、頭がさがる。
次回は、アメリカの大学探し、アメリカ大使館との打々発止の駆け引き、「ドル買い」の話しをさせていただこうか。
では、ご機嫌よう。
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