私は知恵袋で、それこそ千差万別な質問に答えてきた。ちまちましたお尋ねもあるが、真正面から言葉の問題として質問される人もおられる。或る日、こんなのが目に止まった。私は得たりと答えた。真面目な御仁じゃ。こんな人は、いずれ一家言構えて、立派な英語人になられよう。私は、この御仁のようなお人がおられることに、えらく感動するのだ。
【質問】ある英文を読んでいくと同じ意味を別の表現で書かれていたりしますよね?
たとえば、簡単な例ですが:
1 冒頭 I think…(筆者の主張)
2 中盤…理由、根拠、具体例、データ
3 最後 I believe…(冒頭の言い換え)
のように、くどくど同じ単語を繰り返さないように英作文を書くためにはどうすればよいでしょう?
日本語で同じ意味であるが、英語ではニュアンスが違う単語は使ってもよろしいのでしょうか?
【回答】
どうすれば、という部分は物書きの永遠のテーマでしょう。文章を練るということ、練分の癖はこと文章作りには宝だと思う。その端くれの身として私は読書は食事だと自覚しています。物語を読めば筋よりは構文を追うことが多く、読むよりは解きほぐす意識が強いかもしれない。
あなたのお話しには実感が籠っている。内容を活かすために言葉を選ぶ感覚は貴重です。同じ言葉を繰り返す韻文的な面白さもあるが、それはそれとして、包丁の切り口を楽しむ感覚に似た趣が錬文にはあるように思える。さて、どうすればとのことですが、これといって能書きを書ける柄でもないのですが、私は日頃の辞書使いが、あるいはひと様とは違うかもしれないと自覚しています。英和を使う比率はごく低く、英英や類語辞典、活用辞典が多い。Duden なども身近において同義語やら類語、派生語に馴染むようにしています。
ニュアンスの違い云々のお話し、文章や状況によりますが私はむしろ日本語感覚で取り込んで、周囲の文脈からそれと分かってもらうやり方をとります。つまり違いを逆手にとって活かす感覚。結構楽しめる境地だと思う。なんの回答にもなっていないかもしれませんが、愚見を述べさせて頂きました。
ご參考まで。
私はこの御仁の【言葉を選ぼうとする感覚】が滅法大切だと思うのだ。錬文は選び抜いた言葉を練る作業だから、そもそもまずは言葉選びが魂だ。和文を英文に転じる作業は、とくにこれが大切だ。私が思うに、とても英語になりそうもない言葉が日本語にはある。それをどうにかする楽しみは、翻訳をやるものだけが味わえる醍醐味じゃ。それでしこたま儲かれば越したことはないが、儲からなくとも、私などにはこれほど楽しい仕事はない。
英語になりそうもない日本語という話、私は卑近な例を思い出す。三年を掛けて訳出したある名著がある。台湾人で歴史家であり脚本もものにされた王育徳という碩学がおられた。大正から昭和へ、日本の統治下で学を得た王氏は、すこぶる付きの格調高い日本語で日本の読者へ向けて母国台湾の歴史を書いた。「台灣:苦悶するその歷史」で著者は随所に「英語になりそうもない」表現を繰り返す。訳者を泣かすこと久しく、私にお鉢が回ってくるまでに40年の歳月が流れた。褒めていただきたいのだが、私はこれを訳し遂げた。その「なりそうもない」部分を英語に編み上げての翻訳だ。当然ながら、英語圏の人の校正に委ねることなく、文字通り「言葉を選んで」仕上げた翻訳は私の仕事の中でも燦たるものと自負している。
私の言わんとすることは、仕事の自慢などではさらさらなく、ひとえに言葉を選ぶことの意味合いを卑近の実例でご披露したまでのこと、まずは、端から英語使いの醍醐味について、身近な話しとしてお聴きいただけたら望外の幸せだ。ご機嫌よう。
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