ハリー・シゲノの想い出:その2(38)

命の洗濯
ハリー一家との一日はさながら一服の玉露だった。思わぬ酒肴に預かった呑んべえの満足ぞかくやという癒しの一ときだった。ノスタルジー云々には日なお浅く、むしろ脱日本を期するものには出鼻を挫かれた昏(うら)みもなくはなかったが、それは強がり、あれは紛れもなくまたとない命の洗濯だった。

ハリーの立場
ハリーは日本について二世らしからぬ親和感をさらけて見せた。ご案内のように二世には大きくふた種類ある。大東亜戦を期して日本から帰ったいわゆる帰米二世といわれる連中と居着きの二世たちで、互いに意識的な乖離があった。後者が447部隊に志願すれば前者は悪名高い強制収容所で暴動を起こしNo-No boyの立場を鮮明にした。米国旗に対する姿勢と志願の意思の有無を問われて、いずれもNoと突っ張った帰米二世たちは員数的に明らかにマイナーだったが、親の一世たちの目には深層心理的に痛々しい存在だったのだ。

ハリーがどちらか、その辺の知識も経験もゼロに等しかった私は迂闊にも聞き損ねたのだ。無知とは情ないものである。だが、話し振りから重野の親父さんの人となり、息子への思い入れから推測して帰米だったに違いないと思うのだ。後日すれ違うことになる純綿の二世から受ける印象が彼からのそれとあまりに違うからだ。帰米組でも収容所で騒動を起こす輩に与(くみ)せず、アメリカに生まれながら父母の古里日本への思いを育む温厚な帰米二世のひとりだったに違いない。

お夏清十郎
それを裏付ける心に残るエピソードがある。日本の唄も慰みになるだろうと、ある日、東海林太郎のレコードを一枚、寮に届けてくれたのだ。あの日、日本の流行り歌の話はしていなかったし、東海林太郎の話題が出たわけでもない。おまけに、この私贔屓の唄い手のものを持ってきてくれるとは!ハリー自身の気配りなはずがない。レコード盤の向こうに重野の親父さんの笑顔が見えるかのようだった。

東海林太郎は昭和を通じて歌謡界に君臨した大御所、「赤城の子守唄」や「すみだ川」、「お駒恋姿」などで知られるあの直立不動の唄い手だ。贔屓だから彼のものは大概唄えたが、その日持ってきてくれた曲「お夏清十郎」はたまたま馴染みが薄かった。歌舞伎仕立ての小粋な日本調で、里心を癒すには格好なしらべ。

そのレコードに落とした最初の針音をいまでも鮮明に覚えている。76回転のストイックな擦れ音、三味線の音、拍子木や小太鼓の芝居っ気たっぷりのリズムが興をそそった。回し直すたびにこの曲の魅力に憑かれた。しばらくはバイトの外仕事をしながら、すっかり覚えきったお夏清十郎を口ずさむほど入れ込んだ。いまはこの曲は私のカラオケメニューに欠かせない。

もう一つの日本
その後二、三度、ハリー一家とは誘われてドライブを楽しんだ。あの人たちのつながりで近在の日系コミュニティと交わり、その都度あれこれと日本のもののお相伴に預かった。あの段階の日系人との触れ合いが後の私の日系問題意識のプロトタイプを形成し、総じてアメリカ観のベクトルを決めたと云っていい。

とんだ脱日本だが、ある避けるに避けられぬ問題を直視することになって、アメリカという座標上の日本の位置関係を考えるようになった。つまりは、日系人問題を介して「もう一つの日本」を発見したのである。言うことはない、仏の掌上の悟空のように、脱したとはずの世界から遂に脱し得なかったである。

ハリー・シゲノ夫妻にはあれ以来会っていない。写真の一枚もない。ボイシ時代の私に社交を愉しむ寸暇はなかった。異境で出合った「日本人」との触れ合いを味わうには、日々が余りにも切羽詰まっていたのだ。FacebookやLinkedinで名を繰ってみたが、ブラジルにいる同名の男性は若く、紛れもない別人だ。今となっては、あの人たちを思い出す縁は、哀れ、瞼の裏に残るセピア色の残像でしかない。

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